詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■ 「 星 (さあ、水晶狂いしよう 1) 柴田望

「 星 (さあ、水晶狂いしよう 1) 」

巡礼のうたごゑ祇園の夜のともしび時計の玻璃石蕗つはの花咲き
寺の庭あらたなる草木人間の道深く信じ消えにけり融けゆけり
枯れはてて哀しき木の芽に息をふきかけうつくしき川は流れ
美しき微風蒼き東京浅草夜のあかり死にしもの啼きいづる
菜種のはなは波をつくりたちまちに鳴り氷の扉ひらかれ
人人の心伸びゆけり一心に土を掘る風に砥がれて光る
かもめなぎさ波、波、哀しき波ぎんいろの蛇になる
砂山に埋め去る燐光とその哀歓指は魚針のにぶり
金のラインを空とほく引ずりて草は秋のひかり
水のほとりにたましひふかく燃えたち震はせ
血みどろに生けることつかの間に消え去り
銀の片脛十字をきる月草の藍をうち分け
飛べるもの石となり玻璃のごとく死す
霜に祈らん風もなき白昼あらし来る
きららめきつつ飛び山山雪を染め
秋松林のなかに座すうづくまり
海の青い瞳は来る渚波のむれ
静かなる空土はおとなく秋
梢はかわき水すまし離れ
ふるさとの公園芝草に
秋をまつ大根畑に雨
微かなる音をたて
寂しき哀章抱き
交し叫び凍み
朱き葉落す
立ち戻り
わが肌
明眸

踊りつつ涙ぐむ炎再生を思慕する踊れ詩篇に火を放ち死にゆかむ
夕陽のリズム麺麭をもとめんガラスのごとく透きとほりひびき
屋根裏より手をさしのべて円形のリズム樹は炎悪酒に浸れる
脳はくさりうつとりとうつくしく賑ひを怨ずるただひとり
寂しい心旅人のやうに憩ひ暮れ方近く煙のぼる室生犀星
感じるなんといふ微妙な霧葉の上に梢に真にかがやけ
汽車はつく雪熱い息をつく雪国の心季節のかはり目
寂しき梢を求むれば天上寂しき上野ステエシヨン
味覚を失ひ祈り求め遠方へ去る日ぐらしのこゑ
銀製の坂を下りいちめんに苔が生え手に躍る
ひややかに輝け燃えつつそそぐ九月夜の霧
空と屋根茫として綴る夜霧の並木ぬれて
街をさまよひなつはみどり熱き夏の砂
並木にすがり海をわたり青き世界よ
渾身の力輝ける街路眼もくらやみ
都に眠る眺め深く流れみなぎる
草の消えゆく大乗寺山寂しき
煙のなかはりがねのごとき
眼はひとり冬木の幹は青
煙れる冬木朱き日入る
ふたつに割れし石音
啼く水を噴く凍り
夜夜冷えまさり
無口のつぐみ
血もて血を
光のなか
暖かき
蒼空

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■ 「 世界図書館 」  柴田望

「 世界図書館 」  柴田望
*

 中島博美さんから渡辺宗子さんの写真をたくさん送って戴いた。十五年前、まだ詩人との交流がなく、音と絵の付いた怪しげな詩集を作り、ネットで流していた頃、北海道新聞の「道内文学」で紹介された。同じ欄で「弦」の存在を知り、宗子さんへ送った。お便りと「弦」が届いた。柴田の詩を真面目に読んでくださった。お会いしたいと思ったけれど、何年も叶わなかった。仕事のために死んでもいいと本気で考えていて、理解できない人たちに誤解されていた。宗子さんは電話をくれた。フライヤーが届いた。雨の中を迷いながら白石のカフェ、プランテーションに辿り着く。渡辺宗子さんと中島博美さんが笑顔で迎えてくださった。高橋秀明さんが書籍を並べて、会場を見事に作り上げていた。二〇一六年三月十九日〈第三回北海道横超忌〉、北川透氏の講演「言語表現と権力意志」。たとえ一人の作家からしか影響を受けていなくても、その作家は複数の本を読んでいる。その複数の本の作家たちがさらに多くの過去の本を読んでいる…、膨大な人類の時間の連続性を「世界図書館」と呼ぶ。一人の意識を遥かに超えた仮想空間にアクセスし半狂乱になった夢遊状態を《自己表出》と呼ぶ。ランボードストエフスキーも「世界図書館」に手を摑まれ次の行を書く。創業者の仕事を社員や次の社長たちが継承するようなものですか? と質問した。それはそうだけれど、どこかで途切れるものではない、と北川氏は答えてくれた。涯てしない連続性、永劫回帰への接続。《自己表出》は「価値」であり、「時間の概念」。ザ・バンドの音楽には「カントリーやイングリッシュ、スコッチ、ウェールズのコーラス、同時にミシシッピのブルースもある」(マーティン・スコセッシ)。この教えは渡辺宗子さんの詩を読むとき役に立った。休憩時間に宗子さんは北川氏に「弦」をプレゼントしていた。私は現代詩文庫48『北川透詩集』(思潮社)、あの舌出しペロペの…、「風景論」のページにサインを貰った。大岡信には批判されたが、菅谷規矩雄が擁護してくれたと北川氏は話してくれた。第二部では道内外から集った錚々たる文学者たちによる朗読やスピーチ。詩祭の間、私はずっと渡辺宗子さんの笑顔の隣で、贅沢な「世界図書館」に浸っていた。石井眞弓さんの書が素晴らしかった。長屋のり子さんが司会で、村田譲さんによる「デモクリトスの井戸」の見事な朗読で会は終わった。

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第三回 北海道横超忌 2016年3月19日 講演 北川透氏 「言語表現と権力意志 ~『言語にとって美とは何か』以後 」

第三回 北海道横超忌 2016年3月19日

講演 北川透

「言語表現と権力意志 ~『言語にとって美とは何か』以後 」

時間 14:00~17:00

場所:プランテーション

ADDRESS : 札幌市白石区菊水8条2丁目1-32

TEL : 011-827-8868

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北川透さんの講演。〈自己表出〉と〈指示表出〉と〈力への意志〉の三権分立のお話は私には大変よくわかった。詩作だけでなく、作曲やジャズの即興演奏で次に何を弾くか、普通に会社に勤めている人の仕事の選択に置き換えてもよく分かる。先人たちの背後には何千何百という先人がいて、その先人の背後にも何千何百という先人が影響を与えているからこそ、科学の進歩も急激に進むし、意識だけではなく潜在意識を使わなければ車の運転だってできない。一心不乱に仕事をして、気が付けば、お客さんにものすごく感謝されている、心動かす価値ある普遍的な仕事ができた、ということも確かにあるわけで、一人でやったけれども一人でできたわけじゃない、《何者かに手をつかまれて書いている。》《世界図書館がかれに乗り移っている》という瞬間は日常だれもが経験しているはず。ちゃんとした仕事をしたいという意志が〈力への意志〉。生きるために働いてます。納得のいかない質問者が多かったのは何故か?

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吉本隆明についての講演で、〈力への意志〉を足して読もう、と仰るのは北川さんくらいではないでしょうか。普通の先生はあの「ウッと言ったから海という言葉が生まれた」みたいな話を必ずされるので、北川さんは違うんだな、ということは分かりました。とにかく三権分立が素晴らしいということはよく分かりました。

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・「風景論」(舌出しぺロペ・・・)が大岡信には批判されたが、菅谷規矩雄が擁護してくれた、みたいなお話を、この日作者である北川さんご自身から伺ったので、ちょうどカバンに入れていた『北川透詩集 現代詩文庫48』45頁「風景論」の終わりにサインをお願いし、頂いてしまった。特別な一日でした。感謝の限りです。

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講義メモ

*-*-*-*-*-*-*-*-*-

・飛行機に乗るのが苦手。国内では乗ったことがありません。落ちるからというわけではない。国内はどんなに遠くても列車で行きます。

 住んでいるのは、山口県の一番西の端、下関という人口30万人くらいの街です。

 門司との間に関門海峡があります。海底トンネルを歩くと約15分、関門橋は自動車が通る。関門海峡の水の流れは激しく、1日に4回流れが変わります。関門海峡の縁に仕事場があります。

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・昨年12月、思いがけず高橋さんからお話があって、ご依頼頂いた。いままで講演の依頼は断ったことがありません。ライターとして発表している以上、依頼を受けたらそこへ行って批判を仰ぐ責任がある、と考えています。たとえ聴く人が10人未満であっても、自分でお金を出してでも、頼まれたらありがたく参上し、批判を仰ぎます。

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・年を取ってきたので、上手く論理展開ができなかったり、時々つまったりすることもあるかと思いますが、ご容赦頂きたい。

 書いたものを含めて、話が分かりにくいとか、疑問があれば質問や意見をお願いします。本当は高いところではなく同じ目線のところで議論したい。仕事に活かせると考えています。

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・吉本さんとは親しくありません。吉本さんの書いたものから影響を受けているが、個人的には親しくない。現代詩手帖で一回対談し、同席したのはその後数回のみ。吉本さんがぼくについてどう考えていたかは不明です。

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・1957年、大学4年生のころ、吉本さんの『文学者の戦争責任』という本を読みました。(淡路書房 新書版)。横浜国立大に居た同い年の学生で、学生運動の指導者をしていた村田栄一に教えてもらった。

 僕は愛知学芸大学。奨学金を貸与された貧乏な学生で、教育系大学の自治会に参加。村田栄一は全教学協の副議長。実質ナンバーワンの指導員だった。大学3年のときにゼミナールをやったとき、オルグとして村田栄一が来て、「東京の大学の学生がいまどういう風になっているか」話してくれた。東大の学生が共産党を全員が脱党、全学連日本共産党と訣別、学生運動は大きな転換期にあった。一種の思想・文化運動のような学生運動が展開。そのころ学芸大学は全学部が中心になって、全国の学生を集めて、日教組の教研集会の学生版をやった。そのとき来ていた村田栄一から、吉本隆明の『文学者の戦争責任』という本をもらった。東京の学生は吉本さんを読んでいる。

 日本の左翼運動が分裂しはじめていた。ソ連、中国は全体主義であり社会主義じゃない。反スターリニズムマルクス主義批判、学生を中心に大衆的に生まれていった。吉本さんが影響されて、学生運動に近づいていった。知識人としてではなく、一人の大衆として、学生のデモの中に入って、一緒に座り込んだり、機動隊に殴られたりした。30代の吉本さんのほうから学生に近づいて、議論をしたり、運動をしている。学生と区別なく活動していた。

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・『文学者の戦争責任』を読んで、今まで尊敬していた有名な詩人たちが、戦争中にどういう詩を書いていたかがわかる。戦前はプロレタリア、戦中は戦争協力の詩、戦後は平和の詩を書いている。高村光太郎は別格で、決して媚びたのではなく、高村光太郎の近代的自我の運命として、思想の必然としてそういう道を歩んだ。

 吉本さんは他の詩人を「詩を書く方法に対する自覚がない」とするどく批判した。だから時間が経つと正反対の思想になってしまう。

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・私(北川氏)は学生のときはまだ詩を書いていない。私立高校の教師をしながら、1958年から1960年は学生運動の延長のように生きていた。元々裁縫学校であったところが女学校となり、男子も併設した高校で、劣悪な労働条件であった。皆でこの学校を変えることができないかと考えた。意見を言うとクビになる。しかし、給与体系すらない。だれがいくら給与をもらっているかも分からない状況だった。意見を言ってもクビにならない状況にするため、先生たちを説得し、労働組合を作った。

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・この時は生活という問題があった。自分の生活をどうするか。食べていく、結婚する、思想だけでは生活できない。埴谷雄高という思想家の本を当時皆が読んでいた。『幻視の中の政治』という本があります。ここに書かれていることで大事なことは二つ。

 一つは、「生活の幅は政治の幅より広い」ということです。政治なんてちっぽけなものに夢中になって生活を棄てるのか?政治を職業にする、ということもおかしい。

 もう一つは〈権力〉について。埴谷さんは、権力の本質は、「あいつは敵だ、殺せ」これが本質であるという。これを実行するために、権力は軍隊に似たピラミッド型の構造をつくる。強大な権力が力をもたない民衆を支配する。

 当時、この考え方に違和感を感じました。〈権力〉とは何なのか?労働組合で条件・要求を出すと学校の理事長と団体交渉ということになる。向こうは権力、こっちは組合員。だけど、組合の代表は「ストライキをやるよ」と臨む。私立校だからストライキされると困るので、言うことを飲まざるを得ない。しかし、その後は何事もなかったかのように、理事長や校長たちと普通に協力してやっていく。

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・向こうは〈権力〉だか、こっちは〈権力〉ではないのか?埴谷雄高さんの〈権力〉の考え方はおかしい。実際は〈権力〉と〈権力〉がぶつかっている。労働組合の幹部が議員になって、労働者を支配する。これも〈権力〉だ。〈権力〉は一方的なものではない。M・フーコーの考え方に影響を受けたが、強大な国と無力な民衆、この対抗関係で権力を見ていると、解決しない。二人の人間が向き合っているところでは権力関係がある。前提は〈生きる〉ということに権力への意志がある。

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力への意志を、人はすべて持っている。権力は英語ではPOWER。すべての人間は力への意志を持っている。生きようとするすべての情動に依拠している。強くなりたい、自由でありたい、豊かな富めるものになりたい、存在しないもの・未知のものを創造したい、愛し合いたい、歓びや快感を得たい、支配したい・・・あらゆる生きる欲求、人間の意志はすべて力への意志。本能のような力への意志を潜ませている。翻訳は『権力への意志』『力への意志』と混在していますが、同じことです。すべての感覚・感性は力である。この意志の能動的形成、肯定の哲学。

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・しかし、私たちは消極的に生きています。積極的な生き方ができないということがある。これもまた力への意志であり、反動的形成です。力への意志は反動的形成とぶつかり合いながら、自分の生きる方向を見つめている。

 生きることに積極的な意味を見出せないことも力への意志であり、力への意志に負けると反動的な生き方となり、弱者・奴隷に陥るとニーチェは表現した。

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・私(北川氏)はいま80歳。吉本さんの書かれるものはほとんど同時期に読んだ。発表時期に注目しました。ずっと読んできて、ものすごく影響を受けました。ニーチェは1960年少し後に読みました。政治集団ブントが崩壊した時期にマルクスニーチェを読み返した。これからは自分でものを考えて生きていかなければならないという時期、マルクスニーチェフーコーの『知の考古学』など、全然分からなくても、まず読む。自分一人では読めないので、大学卒業後、読書会をやって、集団で教えてもらいつつ、皆でつつき合って読む。皆で読むと恐くない。友人に教えられて読んでいくと、最初の翻訳はおかしい、今の翻訳ならわかる、中村雄二郎の翻訳はダメ?などと比較できるようになってきた。

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・吉本さんのことをとても尊敬しているが、『言語にとって美とは何か』には何かが欠けていると気づいた。〈力への概念〉が欠けている。吉本さんの読書遍歴を見ると、若い頃にニーチェを読んでいるが、『力への意志』が含まれているかどうかはわからない。ニーチェフーコードゥルーズというフランス現代哲学の流れは力を問題にしている。マルクス以後、どうやって世界のビジョンを組み立てるか?誰も教えてくれない。M・フーコーニーチェの影響を受けている。吉本さんはフーコーをもっと早くから読みたかったと言っている。

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・〈力への概念〉にどう取り組んでいくか。吉本さんは「想像力」という風には書いているが、『言語にとって美とは何か』には〈力への概念〉が欠けている。しかし、吉本さんは『言語にとって美とは何か』は「自由になおせるように、自由に足して読めるように書いている」と言っている。発表されてから50年の思想の経験があります。50年の間で世界が大きく変わっている。東ヨーロッパ、東ドイツの崩壊、中国は全体主義であり、それを突き詰めたのが北朝鮮マルクスの考え方を振り返り、これからの世界を考えたときに、ニーチェを読まなければならない。今までの50年間をどう考えていくか。

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・〈力の意志〉と〈力の意志〉がぶつかり合い優位な力が勝つ。しかし負けたほうの〈力への意志〉も貢献をしている。二つが協定のようなものに達している、とハンナ・アレンは考えた。映画にもなったドイツの女性哲学者ハンナ・アレンの著作は『人間の条件』『革命の条件』『全体主義の起源』など。ナチスの収容所やヨーロッパにおけるユダヤ問題とは何か、ユダヤ人問題を詳しく書いている。

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・資料⑦ランボー 「空腹」 (鈴村和成訳)

 ランボーは色んな種類の翻訳が出ている。ランボーの存在は、文学とは何か?文学の謎・不思議さを考える上で非常に興味深い。中原中也ランボーの行分韻文詩の個人全訳を最初にやった。中也は独学でフランス語を学んだ。中也の詩は感傷的であるとかレベルが低いという批判はあるが、たくさんのフランス語翻訳をしている。専門家に言わせたら誤訳だらけと言われるが、じゃあ何が正しいのか?という問題になる。

 『地獄の季節』に収められたこの「空腹」は、色んな人が翻訳していて、皆訳語が違う。元々はフランス語。ランボーは19歳で詩から離れて、アフリカで武器商人になった。妹への書簡はたくさん残っており、その中に詩らしいものはあるが、16~19歳で書いた詩が世界文学になっている。文学とは年を重ねたらすごいものが書けるのかというと、そういうものではない。不思議なもの。ランボーの詩の翻訳は皆違うのに、ランボーで通用している。あなたの翻訳は正しいのですか?という疑問に対し、じゃああなたは正しいのですか?ということになってしまう。解釈次第で、色んな翻訳になる。

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ランボーは生活に困ってアフリカへ行く。シャルルヴィルからパリに出るが食べていけない。19歳で詩を放棄して、武器商人になる。『地獄の季節』が出版した唯一の詩集。しかし『地獄の季節』より前の後期韻文詩の中に、この「空腹」によく似た作品がある。この関係は?と考えたとき、「前に書いたものを見てではなく、頭の中に記憶して、記憶に基づいて書いた。だからよく似た詩がある。」と鈴村さんが言った。翻訳は人によって違う。鈴村和成さんと堀口大学さん、宇佐美斉さん(分かりやすい翻訳。筑摩書房文庫)、人によって大きく違う。でも、ランボーである。ランボーで通用している。

 言葉はそういうものとして、僕らの前に存在している。

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・「空腹」に書かれているのは「飢え」だが、詩を読むと、単なる空腹とは違う印象を受ける。感覚の悦びに溢れている。詩で読むと、空腹が感覚の悦びに変わっている。すべての詩は、感覚の悦びに触れなければ、詩とは思わない。詩はたくさんの省略でできている。余白の部分を読んで、書かれていないことを読んで、理解する。言葉を選んでいく。韻文は散文には無い感覚の悦びとして我々は読む。

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・1966年に連載が本になった『言語にとって美とは何か』には二つの大きな概念がある。〈自己表出〉と〈指示表出〉です。1967年に現代詩手帖の時評でとりあげました。当時は左翼文学者の力が強い頃で、吉本さんへの批判が多かった。『言語にとって美とは何か』はすべての党派的な文学理論を拒絶する固体の理論であったからです。

 例えば自然主義文学には露骨なる描写という理論があります。本来は描写は文学の一つの機能にすぎない。普遍的になっていないものはすべて文学ではなく、主張にすぎない。抑圧された恋愛感情を解放し、ベストセラーになった藤村の『若菜集』はロマン主義だが、恋愛の解放そのものはロマン主義の一つの考え方であって、文学ではない。

 このようにレアリズム、シュールレアリズム、皆一つの立場の理論があって、それに基づいて詩や小説が書かれる。作家は文学理論に従っていても、理論の囲い込みの中には居ない。作者ではなく、何者かに手をつかまれて書いている。これを「作家の死」といいます。

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・最初は自分の頭の中にあるものを作品に書こうとするが、書いていくうちにだんだん作品は作家を崩壊させていく。それまで書かれた作品の全部、読んでいる範囲のあれこれが、背後から作者に命じている。世界図書館が作者に乗り移っている。

 ドストエフスキーのあの膨大な作品群は、一人の人間の意識の中で書けるはずがない。目に見えないような世界に促され、夢遊病者のように狂乱状態で書いている。彼の頭の中にできあがった世界図書館が彼に書かせている。

 ランボー中原中也は早熟と呼ばれ、萩原朔太郎は晩熟と言われるが、彼らの背後の世界図書館が彼らに書かせた。自分を超えたものの力の意志、狂ったような世界にもっていければ、誰でも作家、詩人になれる。このように自分を超えたすごいものに手をつかまれる状態を、吉本隆明は〈自己表出〉と呼んだ。〈自己表出〉は、「意味」と「価値」です。

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・1966年の発行の後、色んな書評に『言語にとって美とは何か』を誤解したものが出てきた。自己表出を自我表出だ、などと誤読された。「自己」という言葉を入れたために、誤解を生じていた。〈価値表出〉と呼んだ方が良かったかもしれません。

 〈自己表出〉は「価値」であり、「時間の概念」です。

 たとえばこれはコップ、これはマイク、という風に指し示すものが〈指示表出〉。言葉として表現するとき、背後から表現させる〈自己表出〉は時間の概念です。

 万葉、古今、さらに中国の漢詩の歴史があります。人類が詩歌を生み出してからの永い時間、ずーっと詩が書かれている。それを可能にしているものは何か?萩原朔太郎に影響を与えたのは北原白秋です。白秋に影響を与えたものは、万葉まで遡る。永くて目に見えない時間の連続性があります。たとえ一人の人の影響しか受けていなくても、前の人はさらに前の人のものを複数読んでいる。永い時間の連続性の中で、ランボーは今まで読んできた詩やヴェルレーヌの影響を受けている。背後の時間が一人に一篇の詩を書かせる。〈自己表出〉が「こう書いた方が価値がある」「感覚の悦びにふさわしい」「こう書いたほうが嬉しい」と選択させます。

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・例えば「ハトのような平和」という表現があり、この表現がありきたりだからもっと初めての表現にしたい、と〈自己表出〉が、今まで読んできた永い時間の連続性の中にずーっと遡る。このコップをどう書くか?といった時に、底のほうがキラキラと金色に輝いている、その輝きをキリスト教徒であれば神が居ると書くかもしれないし、仏教徒は仏様が居ると書くかもしれない。

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・〈指示表出〉を背後から支える「時間の連続性」が〈自己表出〉です。

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・しかし、この世界図書館が背後から支えており価値を決める〈自己表出〉と、対象を指し示す〈指示表出〉の二つを並べるだけでいいのか?という疑問があります。

 何故、「価値」に媒介されて対象を表現したいのか?豊かになりたい、感情を豊かにしたい、という〈力の意志〉が成り立たなければ、「価値」も「意志」も成り立たない。

 指し示す世界を豊かにしたいという〈力への意志〉によってそれは可能になる。これを三つ目の概念にしてトライアングルにすれば良いのではないか?

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・三つの権力が同じ価値で並存する三権分立(司法・行政・内閣)は、人類がつくった最高の形態です。中国やロシアは全体主義なので議論になりません。今のように議論しないうちに国会が閉ざされてしまう自民党一党独裁は選挙民である国民の責任です。三権分立は、これから先もっと良くなるかもしれませんが、現状では人類にとっての最高の形態。これを超えたと言っていた社会主義はすべて崩壊しました。

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(方法の問題について)

・戦前、翼賛主義が日本を支配していき、軍国主義、ナチズム、ファシズムが拡がっていく中で、詩人たちが十分に社会認識する力を持っていなかった。どうすれば普遍的なものにできるか、今までの詩の書き方を十分検討すべきだった。萩原朔太郎は「詩の原理」を書いているが、すべてを二つの対立論で書いているので、十分に論理化できていない。吉本さんの『言語にとって美とは何か』は詩の方法としてある。しかし、吉本さんは「修正してほしい」と言っている。この50年、世界認識の仕方が変わっている。詩人は世界を認識することで、自分の方法を確立する。社会主義リアリズムなどといった一つの原理に奉仕するのではなく、自分に奉仕し、普遍性を獲得する。例えばM・フーコーの『言葉と物』を方法論として学び取ることはできる。

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(起源について)

谷川雁さんは「原点が存在する」と言ったが、何かが始まるということは、始まりの意識の連続があるだけです。吉本さんの〈自己表出〉は「時間の概念」であり「価値」です。何もないところから「価値」は形成されない。起源は無いと考えてください。詩作のとき、この一行を何故直そうとするのか?過去に書かれたものが背後にある。前に始まっているから自分も始めることができる。普遍性をもたせることができる。これが〈自己表出〉です。そういうものがないと、僕らはどうすればいいかわからない。そして個人を媒介にしなければ、表現することができない。

・詩を書くときは、無意識状態で書いている。どうしても書けないときの詩作法を明かしますと、本棚から好きな詩集を出してきて、最初の二行をその詩集から抜書きする。三行目、四行目は自分で書く。そして最後まで書く。すると最初の二行が空々しくなってくるので、最初の二行を消す。つまり三行目が一番最初の行になります。盗作は創作の本質でもある。このように、詩は言葉から来るのです。

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2016-03-19.

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■葉山美玖さんの新詩集『春の箱庭』(空とぶキリン社)

■葉山美玖さんの新詩集『春の箱庭』(空とぶキリン社)を、一本の映画のように鑑賞しました。なぜ映画のようであるかというと、舞台は詩人の住む世界。アパートの部屋、青空、お煎餅屋さん、神社、牧場、病院……案内してくれる映像のカメラは詩人の視線。日常の出来事や触れ合う人々、記憶の中の人々、姉御さん、ちひろさん、みちるちゃん、てきぱきとした相談員、親切な職員、神父さん……、決して大きな事件ではない一つ一つの場面を経て、そのバラバラの切ない記憶の破片が、深い秘密の核芯に迫る。父のこと、母のこと、自分を映す鏡のこと……。「出帆」という詩篇と、作品「春の箱庭」の中の最後の行に「出航」という言葉が使われていること、詩人の自分自身と向き合う姿勢、勇気に、深い感銘を受けました。

「閉じ込められた私の存在を
 打ち砕き
 眼を開かせ口をこじ開け 
 世界の成り立ちというものを教えてくれる人を
 ずっと待ってきたのだと」(「出帆」)

 世界の成り立ちの不思議…人と人との関りについて、この詩集にこめられた言葉たちが、一緒に前へ歩いてくれているようで、本当のことを包み隠さず、多くのことを教えてくれているように感じています。こんな詩集を待っていました。何度も読ませて戴きます。心より感謝申し上げます。

★空とぶキリン社の本 葉山美玖詩集『春の箱庭』
http://tkiichi.sakura.ne.jp/page283.html

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北海道が誇る詩人、小篠真琴さんの第二詩集『へいたんな丘に立ち』(文化企画アオサギ)!!

■全国規模の名だたる詩誌に参加し、現代詩の世界のみならず、俳句や短歌の才能も高く評価されている、北海道が誇る詩人、小篠真琴さんの第二詩集『へいたんな丘に立ち』(文化企画アオサギ)が遂に刊行されました。おめでとうございます!!
 帯のメッセージに「雪と実りの循環」「現実生活の苦楽」のキーワード。「わたし達は/どこへ向かっているのでしょうか?」(山岳レスキュー」)…決して平坦ではないはずの予測不能な現代を、小篠さんの詩の感性の広大な深さ、詩の領土が優しく包む。「だれも敵などはいないのだ/だれも憎んではいないのだ」(「かもめを見送った日」)。そもそも「丘」は「へいたん」ではないはずだ。静と動、生と死の絶え間なき循環の波形の起伏を、心の機微を、全身で感知できる感性の豊かさと、言葉で表現できる巧みさ…「かおの皮が厚くてやぶれない/みんな、そうして生きているんだ」(「ピーマン社会」)、励ますことのできる優しさ…「スニーカーのひもをむすび直せば/トップランナー/少年はいま、つばさを手にした」(「つまずいた少年」)。
 今回、特に「木」を主題にした作品に注目! 木の「ふるえ」を知覚し、詩人が「私の役割」としてそっと包んで支える詩篇「支える」、祖父の「エイ、ヤー」が遠くから響いてくるような詩篇「オンコの木」、絶唱とも言える、人よりも神に近い聲を伝える詩篇「常代の松」、地底の水を天空に伸ばし「利別川の清流」や「ほの紅い火の燃えさかる聲」を幻視させる。幾世代を越えて地底の涯てまで行き渡る根は「ひとの心の繊細で広大な世界」へ届く血管。「へいたんな丘」のラインを描くのは、樹々を育む大地と包む空。「ここがスタートラインである/すべてが終わり すべてが始まる」(「へいたんな丘に立ち」)。
 冒頭の「山岳レスキュー」とラストの「海が見たい」は小篠さんが詩誌「フラジャイル」に書いてくれた作品。小篠さん、ありがとうございます。6月17日、鷹栖図書室での朗読会にて、詩誌「フラジャイル」メンバーで、北海道の詩の歴史に残るこの詩集のお祝いに、収録作品より、小篠さんの詩篇を群読したいと思います。本当に嬉しいです。ご出版、おめでとうございます!!

★多くの方にお読み戴きたいです。宜しくお願い致します。
■文化企画アオサギHP 小篠真琴詩集『へいたんな丘に立ち』刊行しました!!
http://aosagipoem.main.jp/archives/1342

Amazon.co.jp 小篠真琴詩集『へいたんな丘に立ち』 単行本
https://amzn.to/3NR7yS3

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《 夜のお話し会 》 6月17日鷹栖図書室~金曜の夜の、大人のためのおはなし会。 素敵な時間を、図書室ですごしませんか?~ 今回は旭川の詩人グループ 『フラジャイル』による、詩の朗読会です。

■この度、鷹栖図書室さん(鷹栖町北1条3丁目2番5号【鷹栖地区住民センター内】)より、大変貴重な機会を戴きました。
感染予防対を徹底の上、小規模なイベントを行います。チラシのほうも鷹栖図書室さんにお作り戴き、広報にも載せて戴けるとのことです。大変恐縮致しております。

*
《 夜のお話し会 》
~金曜の夜の、大人のためのおはなし会。
素敵な時間を、図書室ですごしませんか?~
今回は旭川の詩人グループ
『フラジャイル』による、詩の朗読会です。

6月17日(金曜日) 18時~19時
鷹栖町図書室にて
※申しこみ不要・大人も子どもも、みなさんお気軽におこしください。

***出演者**********
 柴田望(しばた のぞむ)
 木暮純(きぐれ じゅん)
 林高辞(はやし こうじ)
 冬木美智子(ふゆき みちこ)
 山内真名(やまうち まな)
 荻野久子(おぎの ひさこ)
『私にとって詩とは何か』のお話と、詩の朗読をしていただきます。(ピアノ演奏もあります♪)

お問い合わせ:鷹栖町図書室 ☎ 87-2486

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「 スプーン 」  柴田望

「 スプーン 」  柴田望

         スプーンが命を運ぶ
      貝殻の道筋を照らすために
    一つの音が消えてなくなる前に
         他の音を必要とする
         旋律、リズム、和声
    抽象的な考えから音を解放する
音を自由に、それ自身として存在させる
     線の様々な性格を実現させる
        まだ話すこともできず
   自分でスプーンを持てなくていい
      学校なんかに採譜できない
       きみは偉大な画家である

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