詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

「アイヌの文化と歴史について」斉藤傑先生(旭川学研究会事務局長)5月23日(水)

■5月23日(水) 18時30分より、旭川まちなかぶんか小屋にて、「歴史を学び、未来を考える市民講座Ⅳ」、「アイヌの文化と歴史について」斉藤傑先生(旭川学研究会事務局長)の講義を聴くことができました。
 旭川開拓の歴史、毎年生誕祭が行われている知里幸恵の記念碑が建てられる際のエピソードや、つい最近まで「旧土人保護法」、「土人」という言葉が正式に使われていたこと等、興味深いお話でした。

~言葉を失うということは、民族の心を失うことです。明治以降、国家権力と教育の力で民族の心が失われていきました。今の人は、アイヌ語で話すことはできません。これが今の現状です。~

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■講義メモ
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■斉藤と申します。この度、有村さんから市民講座としてアイヌの歴史と文化について5日間講座をやるので、川村兼一さんとは以前から相談をして、5回の講座を構成したのは有村さんです。第一日目はあんたがやりなさいということで、やらざるを得なくなりました。
 私は昭和15年、1940年生まれです。77歳になっています。かなり歳をとっていますけれど、旭川で生まれ、札幌で育ちました。小中高と札幌で、明治大学で考古学を学びました。高校のとき、北大の吉崎昌一さんの指導を受けて、考古学に興味を持ちました。明治大学は二部で、夜間部です。昼はアルバイトをして夜通う。5年6年と長い間大学にいました。8年間居れるのですが、父親に言われて帰ってきました。2部は結構多いです。7年目に入った友人が、後輩たちが卒業するからもう卒業するわと、そういう感じです。1年から2年で学生は半数になります。4年生だけは沢山います。5・6・7年という人たちが多く居ました。
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■6年間バイトをして帰ってきました。旭川の博物館は昔護国神社にありました。大学で学芸員の資格を持っているということで、入ることができました。60歳まで、教育委員会関係のお仕事がほとんどでした。
埋蔵文化財発掘の仕事もやりまして、皆さんご存知ないと思いますけれど、昔函館本線は単線だったんですね。それが伏線になったとき、嵐山のところで発掘調査をやりました。ちょうど、丘を削って線路にするということで、遺跡を調査しまして、錦町や忠和の遺跡の調査なんかも行いました。
退職後、三浦綾子記念文学館副館長ということで、木曜日だけ行っています。真面目に勤めている感じではありませんが、コピーだけ取らしてもらいに行っています(笑)。その他は、「旭川学研究会」というのをやって、毎月一回ずつ、色んな話をしながら、時間を過ごしています。最初は何でも研究会でした。10年以上続いています。私が博物館に入った頃にいた当時の人たち、近文の長老たちは皆、亡くなっています。川村さんが長老でした。色んな人が亡くなっている。
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■今年はちょうど松浦武四郎が明治2年に北海道という名前を付けて150年ということです。これから旭川の歴史を話します。
縄文、弥生、古墳、奈良、鎌倉、と皆さんは学校の授業で習っています。ところが北海道は縄文時代はあるが、弥生、古墳は無い。平安、鎌倉も無いんです。明治になるまで日本という国の範疇には入らない場所でした。弥生から江戸はありません。明治になって日本の一員としてすごす明治以前は日本ではなかった。明治2年より前は蝦夷地という呼び方で呼ばれていました。
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蝦夷地、海岸部は日本海ルートを中心に、海の幸を獲って商売をやっています。内陸は明治になってから移り住む多くの原野にまっすぐな道が引かれていく。地図を見ると春光町の自衛隊のところを中心に、いかにまっすぐの線で区画されているかがわかります。札幌も旭川もまっすぐの線で引かれています。
海岸の町は早くから人が移り住んでいます。近文原野、今でも東鷹栖の奥に近文第一、第二小学校があります。この地域は近文と呼ばれていました。鷹の巣の多いところで鷹栖という地名もその由来です。東海大学の下水処理所に「チカプミ」という看板があります。鷹がたくさん住んでいるところ。
昭和45年に梅棹 忠夫が「北海道独立論」(中央公論)の中で、その開発方式は理想主義的な傾向の強いものであった、主畜農業、畜産をやりながら畑作をやる、衣食住は伝統的な生活習慣に基づき、北海道の未来はこの世における理想郷になるはずであったとい書いています。教養の高い士族―ケプロンや黒田の考えを理解し実行したけれど、次第に理想郷からはずれてきた。移り住んできたのは無知な民衆だったために挫折したとあります。
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■私はこの考えには賛成できない。ケプロンや黒田は函館の大野平野で水田をやって見事に失敗した。お米は無理だ、ということで酪農を中心にした畑作をやれということになりました。しかし、移ってきた人たちは、お米を作りたかった。故郷と同じように米を作って食べたかった。故郷と同じような生活がしたかった。初期の北海道の住宅は本州の住宅を真似したものでしたが、寒さに耐えられない。寒冷地仕様ではありません。お米の生産も禁じられ、作ったために監獄に入った人もいます。明治24に旭川でもお米を作れるようになりました。明治23年、永山、神居、旭川の3村が開村しました。133戸、697人、旭川の人口の最も古い記録です。その後、屯田兵が入植します。屯田兵は札幌周辺、琴似、山鼻に明治8年に入りました。旭川に入ったのは明治24年です。永山・当麻に400戸、1200人。屯田に入った人たちは、労働力となりました。1000人以上が移り住んだ。
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■開拓という言葉は、大地を耕し農地を作ることであると広辞苑に書いています。北海道の土地の所有については、アイヌの人たちには、所有という概念は存在しません。自分たちが自由に物を獲って生活していました。鹿やシャケを獲っていました。知里幸恵旭川に移り住んでいました。元々心臓が悪かった。19歳に金田一京助に送ったノートが本になりました。校正で上京もしていますが、19歳で亡くなりました。知里幸恵さんのノートに残っている、アイヌ語をローマ字で表現して、日本語訳を作っています。これが最初のアイヌ語研究であると言われます。北大の教授で研究者の知里真志保は弟です。
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■川村兼一さんと作った知里幸恵の文学碑が北門中学校のところにあります。中原悌二郎賞を獲った空 充秋(そらみつあき)さんの彫刻が2体、常盤公園に置かれています。知里幸恵の文学碑を作りたいので、石が安く手に入らないか?ということで、空充秋さんに相談したところ、知里幸恵って何よ?と言われ、岩波文庫の『アイヌ神謡集』を渡して、作りたいと言ったら、空さんは「俺に作らせろ」と言ってくれ、《銀のしずく ふるふる》のしずくをつみあげた彫刻を作ってくれました。見本が送られたときは皆反対でしたが、最初の打ち合わせでは反対でも、何人かで四国の空さんのところへ行き、石切り場を見て、空さんにお願いすることにしました。お金は要らないと言われましたが、実行委員会でお金を集めました。石代と運搬料だけでも払わせてくれと言って150万円くらい空さんに払いましたが、そのまま空さんから寄付として戴きました。そのときの募金が残っているので、毎年知里幸恵の誕生日に集まりをしています。私が払ったのは空さんにあげた岩波文庫の600円くらいだけでした…
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■常盤中学の近くで知里幸恵は生活をしています。知里幸恵アイヌ神謡集の序文で、「その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人たちであったでしょう.」このように書かれています。
一方、弟の知里真志保は、平凡社世界百科事典のアイヌの項をこのように書いています。「その大部分は日本人との混血によって本来の人種的特質を希薄にし, さらに明治以来の同化政策の効果もあって,急速に同化の一途をたどり, 今やその固有の文化を失って, 物心ともに一般の日本人と少しも変わるところがない生活を営むまでにいたっている. 
したがって, 民族としてのアイヌはすでに滅びたといってよく,厳密にいうならば, 彼らは, もはやアイヌではなく, せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである.」お姉さんとはまるで違った考え方です。
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■私が『北海道を考える』(北海道出版企画センター)という本を書いて、民族の心を歌い継ごうとした姉と、学者としての冷静な視点を持った弟の違いを指摘しましたが、言葉を失うということは、民族の心を失うことです。明治以降、国家権力と教育の力で民族の心が失われていきました。今の人は、アイヌ語で話すことはできません。これが今の現状です。五十嵐幸三さんたちが尽力して平成9年に「旧土人保護法」が廃止されました。「土人」という言葉がずっと生きていました。色んな人が指摘して、五十嵐幸三さんが国会で話して、「旧土人保護法」は廃止され、「アイヌ新法」が作られました。
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2018-05-23.

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