詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■6月17日(日)、21時より、FMおたるにて、
【特別番組】『詩人吉増剛造の世界』が放送されます。
長屋のり子さんが、パーソナリティです☆
全国どこからでも、パソコンで聴くことができます。
http://csra.fm/blog/author/fmotaru/
皆様ぜひ、聴いてみて戴けましたら幸いです!!

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■5月15日(火)13:30~15:00、北海道立文学館講堂にて、
~『火ノ刺繍』の未知なる文学地平 完成の経緯を語る~
詩人・吉増剛造先生、工藤正廣先生(北大名誉教授)、高橋純先生(小樽商科大学名誉教授)による鼎談が行われました。

……その時の様子、今日の休日に全て文字おこしを行いまして、
なんと18000字ものワードファイルが、出来上がったのです。
発表の機会があるかどうか、わかりませんが……
(12月に旭川で行われた吉増先生と平原先生の対談は、
 詩誌『フラジャイル』第2号に掲載されていますよ☆)
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■5月15日(火)、北海道立文学館にて、
「詩人・吉増剛造による『火ノ刺繍』の未知なる文学地平。
完成の経緯を語ります。」ということで、
詩の言語、翻訳の謎にも迫る、素晴らしいお話の内容でした。

怖れながら柴田のほうで質問もさせて戴きました。
その質疑応答の内容だけ、下記にご紹介させて戴きます…
吉増先生のお言葉の最後の凄い二行、詩作の神髄が語られているようです。
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■工藤先生 : ありがとうございます。次の質問、えーと、柴田くん。
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■質問者(柴田) : 今日は5月15日道立文学館、そして一昨日13日は紀伊国屋書店札幌店でも『火ノ刺繍』トークイベントが行われているということで、インターネット上でもフェイスブックツイッターなどで写真やポスターの画像がたくさん出て、多くの方に知らされています。昨日は吉成秀夫さんの書肆吉成丸ヨ池内GATE店にて、《一日限りの吉増剛造サイン本展》が行われて、こちらの写真も昨日私は旭川で、ツイッターで、会社の休み時間に拝見していたのですが、現在、「私たちはものすごい速さで膨れ上がっていく膨大な記録・記憶、声や映像の連なり、重なりを背負っていかなければならない、途方もない時代に来ている」というお話を、じつは2016年に、旭川井上靖記念館のエッセーコンクールの記念講演で吉増先生が仰っていて、そのときは柳田國男のお話で、インタビューの声が録音されているというお話を思い出したんですね。この話を何故思い出したかというと、今回、インターネットで多くの方がご覧になっているということと、それと一昨日の紀伊国屋の会場ですね、札幌の街の真ん中でガラス張りで大変開かれた空間でした。吉増先生と工藤先生がお話されているのを5、60人以上の人たちが聴いている会場を、道行く大勢の人たちが覗きこんで、たくさんの「眼」がありました。そこで、先程申し上げた一昨年の講演では、柳田國男全集の月報で、井伏鱒二が書いた月報の文章の中で、「汽車の窓から〇〇を出して…」と、それが「眼を出して…」という文章で、井伏鱒二がとても吃驚したということが、今回の『火ノ刺繍』の中にも「April 2013」のところに書かれています。物の見方が変わるようなすごい表現だと思うのですけれど、吉増先生は、この「眼を出して」という文章を、どのように発見されて、取り出されたのでしょうか。いま三木成夫さんの話があって、『アフリカ的段階について』(吉本隆明)で内臓系、意識神経系に分かれることから、眼は神経に繋がっているのかな、等と考えながら、お話を伺っておりました…直接関係ないかもしれないのですが。その月報の文章について、少し詳しくお話を頂けましたら幸いです。
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■吉増先生 : 柴田望さんは『フラジャイル』という旭川での詩の運動の火を点けて、一緒に本(『火ノ刺繍』)の紹介の活動をしていますが、いまお話を聞いていて、僕は井伏鱒二さんがよくぞこんなところを見つけた!と思って仰天をして、……。さすがに良く読んでいる。普通は、読み飛ばしていくと、「汽車の窓から顔を出している……」というふうに読んじゃいます。いまお話を聞いていると、もしかすると、柳田國男さんが無意識に「汽車の窓から眼を出して…」と書いた可能性があるなぁ、……。と思い始めました。普通はね、「顔を出して」のはずなのに。だからそういう、…常に間断なく、こう、心のトーンの運動感を、流しているんだろうなぁ、……。ちょうど僕これ奇跡的に持ってきていた、これ、この感心を掴むのに20年かかりましたけどね、この今から聴いて頂く柳田さんの声の、「草鞋を履いて踏み出して、足の底から水が浸みこんでくるのが、これが旅なんでございまして……」っていう、ぶっとんじゃうんだけれど、その前にもうひとつ、「あんた、見なかったかなぁ……、いま入ってくるときに」って、NHKのクルーに向かって言っているんだけれど、5年生になる孫が、お祖父ちゃんが喜ぶと思って、草鞋を買ってきて、引っかけてあったのをあんた気がつかなかったかなぁ、……って、子ども心がこうやって動くのが、一番のポイントなんですよ。これに気がつくまでに20年くらいかかりました。こんな声……(柳田國男の音声の録音を再生。「あんた、見なかったかなぁ……」)。これ最初気がつかなかった。だけど、いまもう一回聴いてみて、トーンと言ってしまうと消えてしまうような、お心の弾み、子どものことを話しているときのお心の弾みみたいなもの、それがこの人の子どもの頃からの経験と重なって、民俗学がはじまっている。それがわかるのよ。それは30年、50年かかるんですよ。だから、先生方と同じように教室で聴かせたりもしてるわけじゃないですか、……。それが重なってるの。だから、柴田さんありがとう。少しずらし気味だけど、こういう話をさっきから示したよね。その都度違う。でも実際に、その都度マイクの調子によっても、あるいは空間によっても聴こえ方違いますからね。そういう時代を私たち生きてるわけ。この途方もない時間とコンピューターのときに、……。それを今度はどういう風にして自分たちの、大事な命の深みにしていくか。詩はそうですよ。詩は本当にもうわからない微妙なものを摑まえなければ詩になりませんからね。
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2018-05-15.
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