詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

《音楽・サウンドと映像による朗読会 ~安部公房「棒になった男」》

■昨日2月23日(土)東鷹栖公民館・東鷹栖安部公房の会主催《音楽・サウンドと映像による朗読会~安部公房「棒になった男」》おかげ様にで無事終了致しました。御指導御協力を賜りました皆様へ心より御礼申し上げます。本日の北海道新聞旭川〉にて、会の様子を大きく掲載戴いております。誠に、ありがとうございます。
 今回の朗読は森田顧問(東鷹栖安部公房の会前会長)、木暮純(詩人・「フラジャイル」同人)、冬木美智子(詩人・「フラジャイル」同人)、佐藤道子(音楽家)、柴田の5名で実施。音楽と映像に合わせて役を担当。東鷹栖公民館ふれあい広場満席の盛会となりました。冒頭と終わりに作品の解説と、安部公房のインタビュー動画の鑑賞も行いました。

・「棒になった男」は1969(昭和44)年に発表され、上演された戯曲。初演は同年11月、安部公房の演出により紀伊国屋ホールにて、市原悦子芥川比呂志によって演じられました。
 「鞄」「時の崖」「棒になった男」の三つで構成されるオムニバス形式ですが、今回は「鞄」「棒になった男」の朗読に挑みました。作品の特徴と致しまして、昨年の短編小...説『水中都市』と同様、人間が人間以外のものに《変形》する変形譚 であること、また、単に都市を舞台として書くのではなく、《都市》そのものを書くことを試みられた作品。《変形》《都市》二つのキーワードに注目し、朗読会を進めました。
 例年同様、安部公房が自宅に所有していたシンセサイザーEMS社のAKSについて説明をさせて戴きました。ピンクフロイドやタンジェリンドリームといった多くの有名なアーティストが使用していた名器です。安部公房作品は海外でも広く読まれています。世界的に有名なミュージシャン(例えばレディオヘッド、キュアー等)も安部公房作品からの影響を認めておりますので、時や国、ジャンルを超えた安部公房作品の影響力についても、今後研究を進めていかなければなりません。

第一景「鞄」 『棒になった男』 安部公房サウンド・音楽と映像による朗読会
https://youtu.be/KuLWJ80xBMk

「棒になった男」 安部公房サウンド・音楽と映像による朗読会
https://youtu.be/bk3kEYefUtM

・「都市的なものが社会構造の中で、もはや附属的な従属的なものではなく、むしろ本質なのだと認めなければ世界もつかめない」(安部公房『都市への回路』)このとき、都市とは社会制度のなかに取り込まれた状況であると考えられます。インド出身で日本文学を研究されているゴーシュ・ダスティダー・デバシリタ氏は「棒になった男」について、「人間が社会制度のなかに取り込まれ、生存抗争、所有欲などによって人間性を失いつつある」「現実社会に存在する問題」を提示するのが安部公房の意図であり、そうした深刻な状況が「人間関係の危機、アイデンティティーの喪失を拡大させている。さらにいえば、現代社会が危機現象に陥っている」ことを公房は作品を通じて読者に伝えようとしている(ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタ『棒の森』の超時代性をめぐって~安部公房『棒になった男』論)と論じています。

・確かに、人間→棒、有機物→無機物、生きているものがそうでないものへと変身するという現代の奇譚は、社会におけるアイデンティティーの喪失を照射しているといえます。仙台でいじめを苦に母娘が心中という信じがたい事件が今なお発生する状況です。50年前に書かれた安部公房作品の問題提起は現在も決して古くありません。 
 しかし、高野斗志美先生が展開された『安部公房論』は、もう一歩先へ踏み進んでいます。植物人間、壁人間、砂人間、棒人間がその変形の極限にいたって、ついに人間を離脱し、変形を遂げていく、その創作表現によって、「連続的な《非人》への自己離脱のドラマに、新しい視線を照射している。」《変形》を「いまいちど、世界を再構成していく原点に転換しようとする。」「新しい虚構の原点に変えようとのぞむ」、こうした運動が行われていることを指摘しています。
 年々日本の自殺者数は減ってはおりますが、現在も2万人を超えている。例えばここで過労自殺や過労死者数が多いのであれば、当然、日本の労働のあり方を見直し、働き方改革等で変化を起こさなければならない。自殺者の総数が減少しても、小中高生の自殺者数は横ばいで一向に減らないということであれば、いじめの問題など、青少年を救う活動に取り組まなければならない。
 人間が人間らしさを奪われていく状況=《変形》を強いられていく状況を、発見しなければならない。「自己変革の新しい拠点を創るために」《変形》を発見する。《変形》という倒錯した虚構のうちに「みずからの存在権を創出していく」ということが可能であるという壮絶な論が、高野斗志美先生の『安部公房論』では展開されています。
 人間が、人間らしさを奪われる状況を文学で創出する行為そのものが、人間らしさの回復につながっていく。存在について深く考えさせる機会を与えてくれる、安部公房の文学活動について、大江健三郎氏はこのように発言しています。「安部公房は、存在することの意味あいについて、この国のいかなる作家、批評家にまして激しく問いつめつづけてきた」。だからこそ今も国境を越えて多くの国々で、時代の転換期ごとに再評価を受けている偉大な作家なのだと考えられます。

安部公房は作品の読み方は作者によって限定されるものではなく、作者は「意味にまだ到達しない実態」を読者に提供する、たとえば航空写真のように無限に読みつくせる、人間がそうであるように、「作品は無限の情報」である、と語っています。50年経った今も褪せることのことのない、現代の問題を扱った普遍的かつ重要な作品を数多く残した安部公房には三つの故郷がありました。満州、東京、そして原籍地である旭川東鷹栖。《安部公房は確かにここにいた》この東鷹栖が安部公房にゆかりのある土地であり、安部公房が通った近文第一小学校に記念碑が建立されているということを、一人でも多くの市民にお伝えしたく、同時に安部公房作品の魅力を当地域から伝えていく取り組みを目指し、今後も東鷹栖安部公房の会の活動を続けて参ります。

2019/2/24

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