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まず、「哄笑」とは一体何のことでしょうか。哄笑する、とは、どっと大声で笑うこと。「構造」とは、物事を成立させる各要素の機能的な関連。次に、「反世界の冀求」とあります。「反世界」とは何か? 物理学では、反粒子が通常の粒子と衝突すると対消滅を起こし、すべての質量がエネルギーに変換される。つまり、まったく逆のもの同士が衝突して、エネルギーが生じる、このように理解できます。じつはこれは、文芸評論家・高野斗志美の著作を理解する上で、非常に重要なカギと言えます。高野先生が旭川の同人誌『愚神群』の創刊号に書いた文を、佐藤喜一氏が著書『小熊秀雄論考』の中で引用しています。「死が生の、誕生の母胎であるという発見」「未来を語ることは、希望の滅亡を徹底的に見すえることによって、はじめて可能となっている」 最後に「冀求」とは何か、これは強く願い求めるという意味ですね。いまはそうじゃない、だけど将来はこうありたい…創作の出発点ではないかと考えます。
昭和一〇年代、《日華戦争から太平洋戦争へと転落する悪時代》の開始。 だんだんものが言えなくなっていった時代に、自由を「冀求」した。「その虚無の地帯にひそむものは、自由である」「むろん、原始としてのその自由のイメージは無産者としての小熊の精神の根底に生きているそれである。」 無産者という言葉が出てきます。資産をもたない、労働者階級のことです。所有を手放していく。自分の肉を与えることで、故郷である海に近づいていった『焼かれた魚』、そしてサルトルのジャン・ジュネ論が紹介されています。『泥棒日記』のジュネは《存在を所有によって規定する社会》で、「存在するために所有しようと思う」。しかし小熊秀雄はそれとは逆で、「存在するために所有を廃棄する」。
この論が書かれた一九六八年(昭和四十三年)は、激動の時代であり、体制と戦う運動が全世界で展開され、「しゃべり捲くる」ことが盛んだった時代です。文学がもっとも輝き、多くの文学者・知識人がしゃべり捲っていた。「破壊への情熱が渦巻いていたあの時期の文学」(筑摩選書『1968』(四方田犬彦・福間建二編)。だからこそ、高野先生は、その一九六八年という時代の中で、小熊秀雄を書いたのだと思うのです。小熊秀雄は「しゃべり捲くる」ことが許されない状況の中で、しゃべり捲っていた。資本主義社会の〈所有〉に〈欠如〉で決闘を挑む。〈欠如〉の意識を〈虚無〉への志向へ変貌させ、〈自由〉を獲得する、という着想が激しい時代の渦中で生まれたのではないでしょうか。
(柴田望 「フラジャイル」代表 日本詩人クラブ)