詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■詩誌「エウメニデスⅢ」第58号(2019年10月)

■詩誌「エウメニデスⅢ」第58号(2019年10月)を購読させて戴き、10月の中旬から何度も読ませて戴いておりました。小島きみ子さんの「月光」を眩しく、映画「ベルリン天使の歌」のペーター・ハントケの脚本「今夜は新月 かつてない静かな夜 街に流血のない夜」の声を連想しつつ、繰り返しの始まり、光の届く範囲、届かない範囲の境、生と死の境に届く光について考えながら、レモンの匂いを、刺される苦しみを、身体の滅びを、Pansy lemon yellowの、子どもの匂いを音楽の主題のように反芻しつつ、言葉が形あるものとして疵だらけになる瞬間の感覚に導かれ、深い静けさに浸らせて戴きました。詩誌に収められた皆様の作品の詩句の一つ一つが、月の光と余韻を帯びてくるように幻視錯覚、光の届かない領域…潜在意識の可能性について考えておりました。顕在意識だけで物事を考えることは、夜の都会を蝋燭一本で照らそうと試みるようなこと。
 論考「アナイス・ニンという作家と詩的なるもの」(松尾真由美)に瞠目。大学のころヘンリー・ミラー全集全巻を読み(というかページの雰囲気に浸り)、ちくま文庫アナイス・ニンの日記」(原麗衣訳)が手元にあり、それ以外は未読でありました。父親の記述は印象に残っています。ヘンリー・ミラーのことを「プロコフィエフに似てるな」などと言う父親…。最初、日記は父への手紙のように書かれるが、あるとき娘は変わらない父を捨てる。書き手にとって必要とされた読者の実体が変わる。実体のない不在の相手に向けられる。読者とは何か。「詩を書くときの詩人が想定する読者の様態」とは何か。「詩人は抽象的なものに身を揺さぶられるがために頭の中で一点に凝集する読者を必要とする」その一点に凝集して書かなければ伝えられない。読むたびにドキリとして、反省をして、読んでいる詩は誰に向けて書かれているか、自分は誰に向けて書いているか、書いているすべての瞬間に鋭く読み手に伝える覚悟はあるか、自問自答を致しております。「通路の堀り進め方にはコツがある。自分の方から掘ってもだめなんだ。相手のほうから掘り進めないと」と、文学を他者との通路と考えていた安部公房が発言しておりましたこと、安部ねりさんの記録にありました(『安部公房伝』安部ねり著 新潮社)。創作の根源、貴重な勉強をさせて戴きました。

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