詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■遠藤ヒツジ詩集『しなる川岸に沿って』(文化企画アオサギ)

■遠藤ヒツジ詩集『しなる川岸に沿って』(文化企画アオサギ)を拝読させて戴きました。問いが投げられる瞬間を目撃させる詩行。いま読まれるべき詩集と思い、大変な刺激を受けました。

 深い悲しみと孤独を湛えるp62「首なくって」を、昨年亡くなった伝説的ミュージシャン、ダニエル・ジョンストンの忘れられない1分ほどの名曲「I HAD LOST MY MIND」と、頭に穴の開いたこの歌の主人公のイラストを繰り返し想起しつつ、

I had lost my mind.
I lost my head for a while was off my rocker outta line, outta wack.
See I had this tiny crack in my head
That slowly split open and my brain snoozed out,
Lyin' on the sidewalk and I didn't even know it.
I had lost my mind.

     「I HAD LOST MY MIND」 Daniel Johnston


首なくって
歩いていたら
転んでしまって

ああ
きっと
道行く
人は首なくって
無様に転んだ私のことを
あざけ笑ったり
舌打ちしたり
してるんだろうな

首なくっても
人々のつめたさはたしかに
胸に刺さるもので
首なくって
痛いな
」 (p62「首なくって」)

首がないのは「私」だけなのだろうか。他の人には首があるのに私にはない。劣っているということか。先天的なのか、後天的なのか? しなる川の流れる源に潜む出自にかかる問題なのか? 首がないと判断したのは誰か? 法律か? 世論か? 強者の都合で設定された常識か? 怪物は「私」か? 他者か? 視線の痛い他者の森の生贄に己を引き出す。


首なくって
歩いていたら
また転んでしまって

つめたい視線が胸に刺さると思ったけれど
誰かが私の
転んですり切れた手を
握ってくれて

手はあったかくて
きっとその手を引いてくれる人は
聞こえはしないけれど
なにか声をかけてくれているんだろうな
「大丈夫ですか?」とか
「どこかで休みましょう」なんて
言ってくれてるんだろうな
」 
(p63-64「首なくって」)

胸に刺さる視線の闇に、一筋の光。カーテンの隙間からあったかい誰かの手が差し伸べられる。その手の温かさで「私」の心も温かくなる。その人には首はあるのだろうか。依然として首が無いのは「私」のままなのだろうか。しかし、その他者の手もだんだん「つめたくなっていて/気づけば/その人の手が/いやに強く私の手を握って/ずっとどこか/知らぬようなところへ/連れていこうとする。」つまり、罠だったのだろうか。情報のごとく、私たちに必要不可欠な味方のふりをしてとんでもないところへ私たちを操る魔物だったのだろうか。


首なくって
どこに行くのか
わからないのです
首なくって
「どこに行くのですか」
と聞けないんです
首なくって
手を離そうとしない
その誰かが誰かも分からないんです
」(p64‐65「首なくって」)

優しい顔をして救ってくれた相手がじつは「影のようについてきてる」「どこかに落ちていく不安」であったとようやく気づく。緊急事態宣言のように。その宣言が解除された後も影のように続く緩やかな不安の緊張のように。「どこかに落ちていく不安」を首から上で受信している。しかし首はない。傍受できない。救いを装い、甘い言葉で近づき、脳を騙しコントロールする公の魔法にしがみつく限り、人口と同じ数の首のない「私」たちの列。解約できない誓いに導かれる。同時代の幻想の川の流れは下る。

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