詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■「阿吽通信」No.4(阿吽塾 2021年1月10日発行) 「あざやかな青は目の前を消えています」(海東セラ詩集『ドールハウス』(思潮社)を読んで) 

■「阿吽塾」綾子玖哉氏の発行される「阿吽通信」No.4(阿吽塾 2021年1月10日発行)が届きました。「あざやかな青は目の前を消えています」と題し、海東セラさんの新詩集『ドールハウス』(思潮社)を拝読致しました感想を、原稿用紙6枚(2400字)程の拙文を寄稿させて戴いております。こちらにもアップさせて戴きます。
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「あざやかな青は目の前を消えています」
(海東セラ詩集『ドールハウス』(思潮社)を読んで) 
柴田望
 人と人形、有機物と無機物、光と闇、形あるものと無いもの、生と死、言葉を発するものと言葉にできないものによって建築は幾何学と生物学の両方の規則を織り上げる。生活はあまり感じられない。整理整頓されていて掃除も行き届いているのに、どこまでも奥深くて複雑な機構。秩序の段階が形成される。深い層へ進みたくて鍵を探る。その意味では夢なのかもしれない。幼い頃から繰り返し見る夢に出てくる家だろうか。あるいは花、鳥、風…各タイトルが夢への扉で、水差しの花のような鍵穴のような「*」(アスタリスク)が手掛かりの註釈へ導く(タイトルだけではなく「ミルク」「庭」「動線」「換気」「オープンハウス」のように本文中の詩句に置かれる場合もある)。専門的な語彙による丁寧な説明が詩篇のイメージと溶け合い空間に響く。
 ドールハウスとは何か? 「ドールハウス(英: doll's house、米: dollhouse)または人形の家(にんぎょうのいえ)は、一定の縮尺で作られた模型の家のこと。建物の外観よりも部屋の内装、家具、調度品、人形などによって生活空間を主に表現する。」(Wikipedia)。模型であり、外観より内装であり、表現である。なるほど、膨大な言語部品によって組み上げられた一冊のエクスペンシブな模型、展示品。十九世紀ヨーロッパの代表的玩具。本物の生活と遊びの境はどこにあるのか。外観については一篇のみ(「外壁」)なので、どちらかというと内装(「下廻り階段」、「床」、「砂壁」、「窓辺だけの部屋」、「ドールハウス」、「天井」、「屋根裏」、「夜の食卓」、「廊下」…目次を見るだけでもわくわくする。)が主題かもしれない。「内装、調度品、人形」や、「ひかりと影と風」(「プリズム」)、形のあるもの、無いもの、視ること、聴くこと、触れること、嗅ぐことのできるもの、できないものたちに伴う思想が多重に息づいている。表現しているのは生活空間だろうか? 人はあまり出てこない。イプセンの戯曲『人形の家』のごとき人間のいざこざはない。血なまぐささもここにはない。詩篇「仮寓」と「オープンハウス」にはたくさんの人が登場するが、〈今生きている〉という感じがしない(「ニュータウン」の時代の賑わいだろうか)。だから人や人形よりもハウスそのものから湧きだされる(本当は言葉がハウスを彫りだしているのだが)詩が編みだす物質が辿る長い旅や、止まっている時間の断面の向こうから拓かれる音楽の宇宙的印象を感覚したい。「余白だった場所が部屋のすべてにおよぶ、これら渾沌は住まうひとらの表象とおぼえるべきで、余剰の生かし方は殺し方である」(「デッドスペース」)。すると殺し方は生かし方。創作の極意のような「デッドスペース」の見事な発露にも注目したい。
 〈今生きている〉感じの波動を二つ挙げるとすれば、一つは植物の匂い。例えば「庭」。ここも過去に満ちているが、手の付けられない「厄介」さに途方にくれる生活者の視点が在る。「「思い出花」の後ろには戦争がある」「庭ほど厄介なものがないことは季節を通して庭の草を抜いた者ならわかろうもので、徒労感と悲壮感はつのり、犠牲になる者もいます」(「庭」)。「戦争」という単語にどきっとさせられる。戦争の時代から庭も家も在るのだろうか。どの戦争だろうか。「根のイマージュにしたがってゆく深さの夢は、その神秘的な滞在を地獄の場所にまで及ぼすのである。壮大な柏は《死者の王国》とつながっている」(『大地と休息の夢想』ガストン・バシュラール)。たとえば太古の森の植物が繁茂している様子や、十九世紀の屋敷などは永久を連想させると思う。「永久は太り、増幅します。」(「永久」)。建築はまた植物のように成長し次元を増す。「接続性をもつようで折り合いをもたずに、越境の限りをつくす」(「たてまし」)。サグラダ・ファミリアは二〇二六年の完成が予定されていたが、現在は感染拡大防止のため工事中断を余儀なくされている。もう一つは「換気」に登場する、青い鳥だ。冬の窓から「吹雪のきれぎれを燦めかせながら」部屋に飛びこんできた、この鳥の存在を、じつはずっと感じながら読み進めていた。「風にのってあがればまたここへもどってくるかもしれない」(P5扉文)、「鳥が尾羽をひらいたかたちで」(「下廻り階段」)、「まぢかで息を吹きかけて、かたっぱしから鳥に変えてみたいわ」(「プリズム」)、「わたしが発することばは窓を超えて羽ばたいてかまわず、窓辺で受けた佳いものを渡そうとすればおびただしく舞い降りてきます」(「窓辺だけの世界」)、「あおく透明な羽根がうっすら風をめぐらせて」(「天井」)、「夢想はだんだんみずからを啄んでゆくもの」(「屋根裏」)、「夜があけるともう鳴いている鳥のことを知っています。」(「夜の食卓」)、「通り過ぎてゆくように見える小鳥らはつぎつぎ種を植えつけて飛来はやまないもの」(「庭」)、「裏手に埋めた小鳥は壁によみがえり、雨に翼を広げます。」(「外壁」)、「あのあと鳥をどうしたか。雪の庭に埋めたか、蘇生させたのか。」(「換気」)、鳥は埋められたのだろうか。生き返ったのだろうか。死が羽音を鮮やかにする。そして「永久」には、永久に死なないガラス製の水飲み鳥が登場する。「永久をありがとう。永久はこたえます。鳥の帽子は赤、エーテルは青でしたよ。」…鳥がドールハウスに与えるのは世界の広さと風と永久だけだろうか。小学生の頃、冬休みに家の煙突に落ちた小鳥を父が窓から空へ逃がした、懐かしい想い出があります。あのときの青い空、エーテルの青を想起しつつ、「またここへもどってくるかもしれない」(P5扉文)象徴が呼びさます夢幻的再会。

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