詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

時代の節目をどう生きるか…ある少年兵のまなざし ~富田正一さんの戦争詩篇から~

2018年9月下旬、ジュンク堂書店旭川店のジュンク・ギャラリーにて、皆様のご協力のもと、「『青芽』から『フラジャイル』へ ~詩のマチあさひかわの再興に向かって~」と題する一週間の展示を開催しました。日本現代詩人会、日本詩人クラブよりも古くから活動を始め、戦後72年続いた旭川の詩誌「青芽」の歴史、作品原稿や写真、年譜などのパネル、2017年12月に創刊した後継誌「フラジャイル」の活動についても展示を行い、多くの方にご覧戴きました。
 9月29日には朗読会を開催。なんと60人以上ものお客様が来場、椅子が足りなくて、奥から皆で運びました。冒頭、旭川の詩の歴史について、大正、昭和(市民劇のゴールデンエイジ)に旭川の街を闊歩した大雪山系詩人の流れを汲む富田正一さんの「青芽」の功績などをお話させて戴き、次に旭川の詩人による朗読、また、道内各地より駆けつけて旭川を応援してくださったゲスト詩人の皆様による詩の朗読。終盤で富田正一さんの詩を私が朗読し、富田さんを紹介。富田さんも登壇され、二篇の自作詩を暗唱されました。
 この日私が朗読した富田正一さんの作品「飛行機雲だけが知っている」、富田さんが私に託した詩篇は、九州太刀洗飛行場で玉音放送を聴いた経験を、少年兵の視点から書かれたものでした。
 富田正一さんは詩集『老春のプロムナード』(青い芽文芸社 2020年)や『秋日』(青い芽文芸社 1992年)にも、戦争体験を何篇か書いておられますが、これらは各詩集の一部であり、全体を特色づけるものではありません。しかし、富田さんが人生を賭けて文化事業を行われた情熱の原動力の核に、戦争体験があったのではないかと私は考えています。
 陸軍の特攻基地に通信兵として配属され、死地へ赴く仲間を見送った。18歳で復員し、「よし、これからは心の時代だ」「心の《よりどころ》を作りたい」と決心され、詩の活動を開始。19歳から91歳までの72年の間(1946年から2018年)、詩誌「青芽」を発行し続け、全国1500人以上の詩人が関わりました。富田さんが経験した戦争の時代は、「心の時代」ではなかった。戦後、詩人と読者、詩を中心に地域文化に関わる多くの人にとっての、心の《よりどころ》の輪を広げる活動に長年に亘り全力で取り組まれました。そのための戦いを、生涯を賭けて続けられました。

 今年2021年4月7日に逝去された旭川の詩人・富田正一さんが1992年に発行された詩集『秋日』より、「父母の眼」をここにご紹介させて戴きます。

  *

「 父母の眼 」

昭和十九年四月五日だった
ぼくは十七才 無償(ただ)の学校に行きたい
一念で 若い血潮をたぎらせ
水戸陸軍航空通信学校の校門をくぐったのだ

東日本各地の十五才から十九才までの少年を
対象に選抜された特別幹部候補生 二千余名
機上 情報等 適正に応じ 振り分けられ
同じ兵舎で 同じかまのメシを食い
同じ教育を受けた

水戸の空気は 冷たかった
むちで打たれ 上靴(じょうか) 編上靴(へんじょうか)で叩かれ
航空通信学 戦闘訓練 内務実施等
日夜を問わず 「お国のために死ぬ」
このことだけを優先して教えこまれた
父母は 若いぼくを案じて
ようやく 手に入れた
鉄道きっぷをにぎり
名寄から千百余キロの水戸まで
二日がかりの鈍行列車にゆられ
しかも ぼくの好物大福もちをもって
二回も 面会に来てくれた
僅か一時間余の面会を終えると
ただ「元気でやれよ…」と言い残し
面会所から帰る 父母の眼は
いまにして思えば
たしかに戦争反対の眼であった

昭和十九年十二月二十九日
卒業証書を手にすると
戦友は 東西南北 命令一つで散っていった
ぼくは
昭和二十年四月十三日
第六航空軍 第六六戦隊に配属の命を受け
数名の戦友と
鹿児島県知覧の陸軍特攻基地に着任
すでに制空権を奪われた
沖縄天一号作戦が始まっており
戦友は 日々 早暁 薄暮
胴体に爆弾を抱えた 愛機に搭乗し
つぎ つぎ と沖縄をめざし 発進
基地を旋回すると
南の海に 轟音と共に吸い込まれていった
戦果を待ち受ける部隊本部へ
出撃機からの簡易無線連絡は悲壮
――――――――――――――――――――
敵艦へ突入 の 合図だ
あの時
ちぎれるほど戦闘帽を振って
送り出した右手で
三角兵舎の一隅に
主のいなくなった寝具をそっと手探り合掌する
特攻要員が各航空隊から続々集結
もう もどることのできない この道
しかし 心は幾度 故郷へもどっただろう
昭和二十年八月十五日
日本で一番長かった日がきた
終戦いや敗戦なのだ
八月十七日
ぼくは 隊長の指名により
復員証明書一葉と現金壱百五十円を受領
わずかな米 甘味品
おふくろの大好物煙草数本
それに愛用の飯ごう 毛布一枚を持って
真夏の陽を背に博多駅から復員列車に乗り込む
車内は網棚に寝るもの 通路を陣どるもの
荷物と復員兵で超満員
一路 郷里へ向う列車の
車窓から見る 広島 東京 仙台の焼野原は
目を覆うばかりだ
あれから 半世紀
生きながらえた 戦友たちは
それぞれの道を歩いて
第一線から退いた者
いまなお 社会に活力をそそいでいる者
さまざまだ
戦争の爪あとを一番知っている男も
六十五才

夏の夜の夢は
戦友が乗って行った 九九襲撃機
特攻基地周辺の知覧の山々
元特攻隊員 千二十八名を祭ってあるという
知覧観音堂
柔和な父母の眼が
戦争を絶対起こしてはいけない
と 目をうるませている

忘れようとしても忘れることのできない
青春の日日
あの時の父母の眼も
私の視野から消えることはない

 *

 富田正一さんが戦争という時代の大きな節目をどのように生きて、何を決意したのか。
 家族、友人、人と人とのつながりを、人の心を守るべきものとして第一に考えていた。
 いま、時代の大きな節目を迎えている現代を生きる私たちに、スマホ画面に奔流する情報などよりも、はるかに重要な、根源的な視点を与えてくださっているように感じるのです。

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