詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

第54回小熊秀雄賞贈呈式

■2021年10月9日(土)アートホテル旭川にて、第54回小熊秀雄賞贈呈式が無事執り行われました。
 受賞詩人、冨岡悦子さん、高岡修さんによるお話と朗読、尊敬する花崎皋平さんの記念講演は、なんと江原光太とパブロ・ネルーダのこと!!、初めての試みにてオンラインでの選評・最終選考委員の佐川亜紀さん。皆様のお話胸熱く、本当に素晴らしい贈呈式でした。(翌日は皆様を旭川市文学資料館などへ、ご案内させて戴きました☆)
 
 同じ会場での「囲む会」でお話をさせて戴きましたが、今回、全国から寄せられた107冊すべて拝読させて戴きました。本当にたくさんの素晴らしい詩集が寄せられた中、最初から際立っていた、お二方のご作品に出会え、幸せに感じております。

 旭川市は、いま、中学生のいじめの問題で全国から注目されています。現実的にどういう対応をしていくかという問題があります。同時に、中学、高校、大人になっても、あらゆる集団や組織の中で、他者と、あるいは自分の内なる声と、どう向き合って生きていけばいいのか。恐怖や戸惑いを感じながら、多くの人が生活しているという普遍的な精神の問題に文学は取り組まなければならないと考えられます。

 今から98年前、大正12年、この旭川で牛朱別川に身を投げた、16歳の少女がいました。山田愛子さん。友人関係の悩み、複雑な家庭環境も背後にあった。そのことを興味本位ではなく、山田愛子さんの心に寄り添った、素晴らしいルポルタージュを書いた、当時の「旭川新聞」の記者がいました。それが黒珊瑚と呼ばれた、詩人、小熊秀雄です。このことは昨年亡くなられた、旭川の研究家、金倉義慧(かねくら・ぎけい)さんの著書に詳しいです。

 小熊秀雄は、常に弱い側に立ち、発言し、行動した、厳しい時代にも、そうした作品を書いた、強くて優しい詩人です。

 冨岡悦子さんの『反暴力考』に出てくる、【少女】【少年】の心の内側のシークレット・ストーリーは、時代を映す、無限の創造性に満ちた宇宙のようです。でもどこか、深い絶望、諦めを強いられたような、影を感じさせる。大人たちは、どうせ子どもだとか、考え方を否定したり、いじめられてSOSを出しても、いじめではない、とか、子どもたちを尊重せず、決めつけるかもしれません。こうした問題は大人の世界にもあります。社会的な構造の中で、もしかしたら知らないうちに、被害者に、あるいは自分が暴力をふるう側になってしまっているかもしれない、だけどもしかしたら、敵だと思っていた、あるいは隔たりがあった存在と、分かりあえるかもしれない、通じ合えるかもしれない、という可能性、「想像」を与えるものが、詩や文学の力であり、小熊秀雄が作品で示した姿勢にも通ずるのではないかと考えます。

 『反暴力考』の26章、61ページのフリーハグ、桑原功一さん、反日デモの集会場に、目隠しをして立つ、「わたしはニッポンジンです、ハグしてください」この感動的な、孤独な魂が他者との通路を見出せるようなシーンに本当に心を打たれました。詩集の帯に、「希望も、悲しみも」「善きことも悪しきこと」「自在に跳躍」と書かれている、その跳躍の瞬間のような、感激をたくさん、この詩集から戴きました。

 そして、高岡修さんの『蟻』、こちらも、手に取った瞬間に、頭を殴られるような衝撃を受けました。何に驚いたかと申しますと、一冊で表現されている。一行の文章とか、一篇の詩とか、そういう枠組みを超えて、一冊の詩集で表現されていて、新鮮な、驚きを感じました。(この本は真っ黒ですが、対となる、真っ白い、白装束の句集『凍滝』も出されている。『蟻』の中に「凍て滝」という詩篇があります。) そして蟻の巣を奥深く進みながら、日頃、集団のヒエラルキーの中、ひたすら前のものへと隷属(れいぞく)する生き方を強いられ、靴底の無意識に恐怖している、私も、会社員ですから(笑)、一読者として、この蟻たちの存在にものすごく共感します。蟻の巣にも似た人類の社会構造に、刃物を入れて、新鮮な断面を見せつけられているような、恐るべき詩集です。

 そして、途中、読んでいると、突然「蟻」を見失うのです。消えてはいないのでしょうけれど、えっ…、っていう感じで、「蟻」がいなくなる。「カマキリ」と「木」に変わる。42ページから46ページの、この中盤の恐るべきドラマティックな展開、今まで「蟻」が書かれていたのと同じように「カマキリ」と「木」が書かれ、人類の運命が、社会構造が、照らし出される驚き! 何を視るかではなく、誰が視るかという問題、表現の凄さ…そしてまた蟻たちの鎮魂の鐘、生と死の境を行き来する月の光、一つの点「、」、読点として、舗道で踏みつぶされた一匹の蟻の死骸から、一瞬にして紡ぎ出される荘厳なビジョンを目撃させられ、思い知らされる。「誰しもが蟻である」と書かれている。「誰しもが蟻であることをまぬがれぬ」 戦争の時代も、戦後も、今の時代も、私たちは蟻のような運命を強いられているのかもしれません。
「蟻地獄」という詩にはこのように書かれています。

「 砂がずり落ちてゆくのは 吸いこまれた蟻たちの声が今も消えず すり鉢状の斜面に
  なおも激しく 反響し続けているからである。 」

 時代の《声》、詩に書かれた言葉は、たった一人の詩人によって書かれたものですが、時代を超えて多くの人と響き合う、魂と共鳴する、それが詩の本質的な要素の一つであり、小熊秀雄が厳しい時代に書いた、作品の核に触れるものではないかと考えます。

 冨岡さん、高岡さんへの御祝いと、素晴らしい講演を戴きました、花崎さんへ感謝をこめて、僭越ながら、マチュピチュの第12の歌、「兄弟よ、立ち上ってこい」、大島博光(おおしま はっこう)訳を、小熊秀雄の精神にも通じると考え、この日、皆様の前で朗読させて戴きました。
***

 きみたちの 死んだ口をとおして
 きみたちの代りに わたしは歌うのだ
 だまりこんだ きみたちのくちびるを
 大地のなかで ひとつにあわせてくれ
 そして 奈落の底から 話してくれ
 まるで わたしがきみらと一緒に繫がれていたような
 あの 長い 長い夜について
 何もかも話してくれ 鎖のひとつひとつを
 鎖の環のひとつひとつ 足跡のひとつひとつを―
 きみたちの隠し持った匕首を 研ぎすまして
 そっとわたしの胸の中 手の中にしのばせてくれ
 黄色い光りの流れのように
 地に埋められた虎たちの流れのように
 そして思いきり わたしの泣くにまかせてくれ
 何時間も 何日も 何年も
 暗い時代も 星のうつる世紀も
 わたしにくれ  沈黙を  水を  希望を
 わたしにくれ  闘争を  鉄を  火山を
 磁石のようなからだを わたしに結びつけてくれ
 わたしの血の叫びに わたしの声に 答えてくれ
 わたしの言葉と血をとおして 歌ってくれ 
 

「マチュ・ピチュの頂き~第12の歌・〈兄弟よ、立ち上ってこい〉」より(大島博光訳)
ネルーダ最後の詩集ーチリ革命への賛歌』(新日本出版社

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