詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■高野斗志美先生のこと

■先日、北海道文学館より館報に載せる「心に残る一冊の本」という短い原稿の依頼を戴き、高野斗志美先生が編纂した『新潮日本文学アルバム「安部公房」』(新潮社 1994年)を紹介させて戴きました。新潮日本文学アルバムの編纂は、日本で一流の文芸評論家に任せられる仕事です。この本に書かれた「安部公房の作品は、現実をたんに描くのではない。それを破壊するための仮説と実験の空間である」という高野先生の一文が、現在の世界情況の断面を鋭く照らすようです。
 今年は高野斗志美先生(文芸評論家・三浦綾子記念文学館初代館長)の没後20年。10年前、2012年には旭川文学資料館にて「高野斗志美展」が行われ、多くの市民が足を運びました。展示室には高野先生の講演CDもあり、優しい笑顔で私にCDを聴かせてくださったのは、当時の東延江館長でした。「敗戦により完全な無価値というものを知覚した。《おまえは幻にすぎない》という恐ろしい声にとらわれた」…あの日、10年ぶりに高野斗志美先生の声を聴き、大学時代の想い出が堰を切ったように甦りました。
「日本の地に足がついているか?」…1995年、旭川大学高野ゼミでの先生からの最初の問い。友人たちは、祭りや着物、日本の文化が好きだとか、そういう返答をしましたが、私だけが、聴いている音楽も観ている映画も、翻訳ですが文学も海外のものばかり読んでいるので、「日本の地を意識していない」と答えました。その後研究室に呼ばれ、音楽について問われ、特に英米文学の影響、ヘンリー・ミラー以降、ビート・ジェネレーション作家たちはジャズに影響を受けて書き、ボブ・ディランルー・リード、ドアーズのジム・モリソン等、60年代のミュージシャンに深い影響を与えた。文学と音楽の繫がりや社会的な動きについて堰を切ったように語った記憶があります。学生のこうした文学や音楽についての話を興味深く聴いてくれたのは、大学では高野先生と山内亮史先生くらいでした。ランボーニーチェが音楽に与えた影響などを語り、ニーチェの能動的ニヒリズム永劫回帰の思想等、私の拙い理解に耳を傾けながら、先生は専門的な補足をしてくださいました。こうして19歳の私と、66歳の高野先生が出会い、私は毎週研究室へお邪魔し、次の講義までの空き時間に、文学についてや、先生の経験されたことについて、沢山の貴重なお話を伺いました。
 「30代までは夜通し書けた。書いて書いて書きまくった」「ひと晩に50枚書いた」「あのころのものは鋭かった」「大江健三郎が出て来たとき、追い越された、と思った」「大江も安部も最後はガルシア・マルケスに膝を折った…」「村上春樹ノモンハン事件を書いたが、核心から逃げている」「35歳で「オレストの自由」を書き、新日本文学へ送った。これなら中野重治も読むと思った」「安部公房が《ありきたりかもしれないけれど、とても可能性のある人だよ》と評価してくれた」「『安部公房論』は閃いて、二週間くらいで一気に書いた」「『密会』がノーベル文学賞で問題になった。みんな『密会』が理解できなかった」「持っていた安部公房の資料はぜんぶコロンビア大学に寄贈してしまった」「吉本隆明の雑誌に書くことになったが、感情の行き違いで絶縁した」「埴谷雄高さんはいい人だった」「野間宏さんには世話になった。がんばれよ、といつも言われた」「井上光晴は破天荒だった」「雰囲気の変わった女性を見かけると、すぐにどこかへ連れて行く」「文学的な権威への反抗心も凄まじかった」「井上光晴の死後、全原稿を500万円で買わないかと古本屋にもちかけられたが断った」「中国へ行く直前に、井上光晴が死に、帰国したとたん安部公房の死を知った」
 三浦綾子記念文学館のボランティア参加、文芸同人誌「タイムポテンシャル」の創刊…、高野先生には沢山の貴重な機会を戴きました。ある夜、何かつらいことがあって高野先生に電話すると、先生はこう答えてくれました。「ポール・ニザンに《20歳が綺麗だったとは言わせない》という言葉がある。青春の時期にも、大人社会の時期にも汚いことはある。困難な時代を、今は一歩一歩進むしかない。」「書き続けなさい。きみは文体によって、いつか自分自身が引き裂かれてしまう時が訪れる。文体がひとりでに立ち上ってきみから離れていくという時が、きっと来る。」
 私が卒業すると仕事が忙しく、なかなかお会いできなくなり、それでもたまに旭川で、例えば三浦綾子記念文学館の館長室でお会いしたこともあります。あるとき東北大学太宰治研究の冊子を私に送ってくださって、高野先生が序文にこう書いておられました。「私は今でも、太宰治を意識している」…その一行に文学を生きる凄まじく熱いものを感じ、お礼状を送り、すると「元気か?」とお電話を戴きました。それが高野斗志美先生と文学的な言葉を交わした最後だったと記憶しています。

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