詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

詩誌「詩の村」、古川善盛の「雑口記」、江原光太の「混沌雑記」、井上光晴、辻井喬、高野斗志美のこと

ドストエフスキーとのかかわりで
『神』の問題を考え続けてきた…
ドストエフスキーの弟子として…

「日本文学のドストエフスキーでいらっしゃるから…」
小説『あちらにいる鬼』(井上荒野著)を読み、
ようやく気づく
高野斗志美先生は意識していた
ドストエフスキーの次に上等な」小説家を
なぜ今まで気づけなかった…
病室は撮影された
「高野よ、おれはこの詩集を読むぞ!」
死の直前も凄まじい文学への執念…

詩誌「詩の村」第6号(昭和40年)、古川善盛の「雑口記」に
「私の脳裡には、かつて樺太で見た己の身を喰う故にそう呼ばれているという
あのタコ部屋の土工夫の姿が…」という一文を見つけた
『実録土工玉吉―タコ部屋半生記 』(太平出版社 昭和49年) を編んだ詩人の原点は
樺太だったのではないか
豊原出身の祖父の記憶にも
タコ部屋から逃げてきた真っ黒い土工の眼が焼きついていた

「詩の村」24号(昭和55年)、
江原光太の「混沌雑記」に驚く
詩人と文芸評論家が、決闘していた
〈他者の自由をよろこび、不幸を感じとるこころ。
 それこそ文学の根底における優しさでしょう。〉
井上光晴による文学伝習所趣意書の一節)
学生に人気のあった河野講師を解雇した教授会メンバーは
「愚神群」同人(高野斗志美・萩山深良)…
「なんという愚かなる神々の群れであろうか」
「井上教授は「旭川大学に日本一の文学部をつくりたい、
 埴谷雄高を学部長にし、おれが声をかけて、だれでも連れてくる」と、
 酔いにまかせて放言したらしい。高野教授はその放言を利用し、
 文学伝習所を餌にして、旭川大学を総合大学に格上げしたいらしいのだ。」
26号(昭和56年)では高野先生の柚木衆三論を引用、
「地道で正確なことばの配置と持続をすこしも見ないで、
 表現への柚木のたたかいを、田舎評論家とけなしつけ
 いきがった珍妙な左翼文学ボスがどこかにいるらしい。
 笑止このうえない。」(北海道新聞・昭和55年12月6日付学芸欄)
これに対し江原は、講師不当解雇事件を再度持ちだし、
山本学部長が学長選挙で敗れ、高野教授が学長代行となったので、
 河野講師の解雇撤回もあり得ると思ったりしたが、
 事態は一向に変わっていない。」
「ぼくには、倫理的にも政治的にも、きみを攻撃する責任がある。
 きみが労働者の敵か味方か、その正体をあばくまで追撃するだろう。」

『貧民詩集』や『ぼくの演説』の詩人が、
全身全霊で《追撃》すべき敵として、高野斗志美を糾弾

次号からはこの問題に触れるのをやめてしまって
文学者が論争する時代など知らない茶髪の私は、ポストモダン真っただ中、
『アヴァン・ポップ』(ラリイ・マキャフリイ)がバイブル
「閉塞された現代を打破する手法」として
「神話的空間の構築」を先生は問題にしていた
P・オースターやS・エリクソンを無理やり読ませて、
安部公房のほうが優秀だな…」
ルー・リードのビデオを無理やり見せて
「君の詩に似てるぞ」と言われたりした
誕生日は七月七日、清末先輩とMTRで録音した
「馬上の詩」(小熊秀雄)の朗読テープと
『筑摩世界文學体系60リルケ』(訳者代表 手塚富雄)を贈る
出たばかりの『南冥・旅の終り』(辻井喬著・思潮社)をお見せすると
「まだ詩を書いているのか…」とお喜びだった

小熊秀雄―青馬の大きな感覚』(花神社 昭和55年)は
朝日新聞荒川洋治に酷評された(と高野先生は記憶していた)
井上光晴論』、『安部公房論』を書いた評論家とは思えない…
高野斗志美は期待された
たぶん、江原光太にも
「きみが労働者の敵か味方か…」

思潮社の『現代詩文庫59井上光晴詩集』の解説
〈救いのない状況をひきうけながら、
 そのひきうけによって、かれの生存にすくう
 光への欲望を、たえまなく触発する〉
かつて崎戸炭鉱で働いた小説家の詩へ捧げた言葉に
土工夫・高田玉吉の救いのない半生に光をあてた
詩人・古川善盛の生きた時空と
底知れぬ決意の次元のまなざしを重ねる…

安部公房のシンポジウムで辻井喬さんに会った
 ポストモダンを超えて、《どう生きるか》が問題になると
 辻井さんが言っていた、ぼくもそう思う…」
数年後、病床で洗礼を受けた
「長い間、ドストエフスキーとのかかわりで
 『神』の問題を考えつづけてきたが
 今、心の底からアーメンと言いたい」

―先年物故した優れた評論家高野斗志美
 彼の「金時鐘『原野の詩』との対話」のなかで、
 「金時鐘の詩には、いつも、決意がある。
  それは、ぬきさしならぬ場に足をふむ者の決意である。
  語のコンビネーションが形をあらわすのはそこにおいてだ」
 と言い、続けて、
 「日本語によって書かれている現代詩に、
  生きることの意志を問う情熱はほとんど断たれている、
  そう言っていい」
 と断言し、
 「(生きようとする意志が)発語を求める意志の次元に
  転換されていくというドラマを期待することはできない」
 と言い切っている。
 (辻井喬「鏡としての金時鐘」『現代詩手帖』平成15年6月号・思潮社

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