詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■5月26日(金)、シアターキノにて、ついに『眩暈 VERTIGO』(井上春生監督)の特別上映。

■5月26日(金)、シアターキノにて、ついに『眩暈 VERTIGO』(井上春生監督)の特別上映。昼の部、夜の部と2回鑑賞させて戴きました。胸いっぱいです。誠にありがとうございます。
 吉増剛造先生、希代の詩人の、詩の《読み方》と《書き方》を学ばせて戴いた思いです。『メカスの難民日記』を手に、詩の核心を語られるシーンの秀逸さ、そしてパンフレットにも収められた詩篇「眩暈」が出来上がっていく奇跡的な朝の瞬間が見事に収められたドキュメンタリー。夜の部の吉成秀夫さんとのトークの中で、「初期の「古代天文台」のような前衛的な詩ではなく「日記的」な詩を書かれた」と仰る井上春生監督のお話が興味深く、もしかしたらその過去の前衛的な詩篇も、恐ろしく前衛的な生き方の行為の中から「日記的」に書かれたのではないかという秘密の問いが、逆説的に明かされていくような、詩の夢想に駆られました。
 告白しますと柴田はジム・モリソンを知ったのが詩の原体験です。高校時代にオリヴァー・ストーン監督「THE DOORS」を観て、関連本を耽読し、ビート・ジェネレーションやディラン・トマスウィリアム・ブレイク、あらゆる扉が開かれました。『眩暈 VERTIGO』にも登場するマイルスやコルトレーンのモード奏法を知ったのもドアーズ経由です。教科書の詩とは全然違う詩の世界。当時の私にとって、例えばドアーズの「THE CELEBRATION OF LIZARD」やギンズバーグの「吠える」の録音を聴く時と同じくらいぞくぞくする感触を得ることができたのは、《吉増剛造》の名が刻まれた詩集だけでした。映画に登場する、スタバやタリーズのレシートの裏にもびっしり書かれた吉増先生の手書きの詩稿。ジム・モリソンにも詩のアイディアを書いた大量の紙片を入れた箱がありました。
 講談社現代新書『詩とは何か』のP196にネガティヴ・ケイパビリティ(消極的な才能)、ジョナス・メカスアンディ・ウォーホルのことが書かれています。「隅っこ」にいる感覚。「中心じゃなくて、そういう人たちの大事さによって世界が成り立っている」「詩作とか芸術行為というのは、「私」が主役ではないということ」という重要な記述があり、これは5月20日井上靖記念文化賞の記念講演で吉増先生が井上靖の晩年の傑作『孔子』の、孔子と蔫薑との「微妙な距離」について語られたことと通じるのかもしれません。『詩とは何か』に書かれている「ネガティヴでありパッシヴである」、「狂気とまでは行かないけど、どこかで狂気とも近いような、貧しさ、乏しさ、……控え目さと病と衰弱と、少し”はすっかい”から世界を見る目」とは何かを示されるような貴重な体験を、この映画が伝える世界の膜(フィルム)の感触から、目や耳の顕在意識で感じるだけではなく、潜在意識の内奥に響かせるように覚える瞬間が波のようにやってくるのを、2回の上映で何となく感じておりました。(映画の中で二行くらい、自分の声がはっきりと聴こえましたことも、とても貴重な驚きの瞬間でありました。ありがとうございます。)
 思いがけず尊敬する詩人の皆様と劇場へお会いできた喜び、シアターキノすぐお近くの、古川奈央さんの俊カフェさんで皆様とお話できたことも嬉しい出来事です。ご褒美のような一日でありました。皆様、誠にありがとうございました。

f:id:loureeds:20230529002556j:image
f:id:loureeds:20230529002602j:image
f:id:loureeds:20230529002559j:image
f:id:loureeds:20230529002605j:image
f:id:loureeds:20230529002608j:image