詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■「触、罠、零 ―故永しほる詩集『壁、窓、鏡』のための試み」 『砂時計』第6号(文芸同人北十 2024年9月22日発行)

■昨年、文芸同人北十さんの発行される『砂時計』第6号に、恐縮ながらご依頼戴き、寄稿させて戴きました。ご了承を戴きましてこちらにアップさせて戴きます。故永しほるさんの詩集『壁、窓、鏡』(第57回北海道新聞文学賞詩部門受賞)の書評ということで、本を手に取った瞬間の感動、《弱い火》の状態から創作における《自動性》を獲得する詩作法について、9,400字の4部構成となってしまい…、ある評への反論と、さらにその反論への反論の試行など、ご一読戴けましたら幸いです。

『砂時計』第6号(文芸同人北十 2024年9月22日発行) こちらよりご購入戴けます。

https://hokuto-sunadokei.stores.jp/items/66e7dac3dfae5d1539bc7929

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触、罠、零
―故永しほる詩集『壁、窓、鏡』のための試み
   
      柴田望

1 触 (開封動画風に……)


 二〇二三年七月十三日、故永しほる詩集『壁、窓、鏡』が北海道旭川市の拙宅に届く。どこから読んでも詩を感じる。今まで読んできたあらゆる詩の気配を感じる。潜在意識にアクセスさせる言葉の揺れと煌めき……。最初からではなく、途中から読んでも夢中になれる。私たちが生きている人類の時間のようだ。詩の一瞬は膨大で深い。一冊が一篇の詩のようであり、各詩篇、詩行を絵画のように味わうとき、行間や余白という壁を与える書籍体裁は展示室だ。表紙にタイトルがなく、背表紙も著者名もない。遠近四角柱が建つ。砂澤ビッキの『四つの風』のように四本。端正なモノリスのようでもある(以後、「塔」と呼ぶ)。塔が詩行なら、距離は行間のようだ。タイトルも、著者名も行間だろうか。行間に詩は宿るが、詩を殺さずに行間の在り方に創造性を与えることのできる詩人は少ない。
 言葉そのものは詩ではなく、言葉は詩というエネルギー体の波動を掬う器であると考えたとき、表紙に描かれた塔と塔の距離の行間に詩の気配を感じる。本を捲るとき読者は詩の宿る空白に触れる。不在が表現される。言葉以前の言語を召喚させるようだ。「どの窓からも/同じ塔が/同じように見える」という詩行を含む詩篇「状態/常態」をはじめ、二十五篇すべての本文にタイトルが見えない。タイトルを介さず、読者は詩の本文の語彙の豊かさに直接アクセスできる。首のない体に触れるような恐ろしい冒涜かもしれない。
 一冊に収められた長編詩のように錯覚するが、じつは各詩篇の冒頭に空白の行が置かれる(「咬合」以外)。目次がトリックを明かす。匿名性の表現だろうか。現代人は忙しい。名前を知らされず中身を知らされることも、中身を知らされぬまま名前を覚えさせられることもある。動画サイトは途中から途中までしか味わえない再生のサムネイルに満ちている。名前も顔も知らずに他者と関わり、名前を知ることで区別が生じる、ウェブ上での天文学的な人間関係の追体験のようだ。発表された詩は読み手のものだ。しかし、枠組みは著者側で操作し演出できる。前衛がここに示された。国境も枠組みである。
 ここで想起するが、カニエ・ナハ詩集『用意された食卓』(青土社)の最初の詩篇「塔」はタイトルが表記されておらず、冒頭に白行が置かれる。読者は目次を見てはじめてタイトルを知る。故永しほるの創作が、カニエ・ナハのアイデアや詩の書き方を踏襲し模倣しているように見えたとすれば、それは罠だ。故永しほる詩集は全作のタイトルを行間化させるだけではなく、詩集のタイトル、著者名すら行間化させている。読めば読むほど深く沈みこんでいけるほどの白さだ。白さに「私」が消される。「私」という言葉が使われても、普通の詩や小説の「私」とは異なる。何が決定的に異なるのだろうか。
 古さを感じさせないのに、これまで読んできたあらゆる詩を想起させる。現代詩人たちが目指してきた表現の一つの到達点を直感する。この作者は何者なのか。かれは書くことに対する不可避性をどのように抱えているのか。どのような詩法を確立し、どのような思惟で方法を走らせているのか。同封の一筆箋に、丁寧な手書きの挨拶が書かれている。「組版や装丁も含めて、世界に対するあり方を試みました」……よく言ってくれた。なるほど、これは試行なのか。いい詩はすべて試行のようだ。詩集が届いたその日に、私は故永しほるさんへ感謝のメッセージを送った。
  
二〇二三年七月十三日 SNSのDMにて

柴田望:
故永しほる様
素晴らしい詩集をお送り賜り、ありがとうございます。『壁、窓、鏡』、手にとって興奮致しております。言葉のオブジェの森、見事な真の詩集だと思いました。
今年、柴田も詩集をだそうと思い、作品をまとめておりましたが、はっきり言って負けました。
御出版を心よりお祝い申し上げます。
  
故永しほる:
自分なりのコンセプトが、それを一冊の中で説明してしまうと野暮になってしまう類のものだったために、内容や本のつくりも読者を拒絶しているようにも感じられるものになった自覚がありました。
個人的には良いと思っていても、読者に受け入れられるのかが不安だったのですが、柴田さんの言葉にホッとしました。読んでいただき本当にありがとうございます!

 「世界に対するあり方」……詩を読者に手渡すときの、世界にまだ提出されていない状態から提出される状態へ繋ぐ境目の壁に鏡が掛けられ、鏡がだんだん透き通る窓となり、壁であった箇所に外界との通路が開かれ、詩が世界へ解き放たれていく、そのプロセスにおける丁寧な所作。真摯な心配りに感心する。見習わなければならない。
  
 八月二十九日、次号の詩誌「フラジャイル」に詩篇を依頼した。二〇二三年十二月二〇日発行の第十九号へゲストとして寄稿戴く(詩篇「補遺、あるいは別解」)。

 

2 罠 (論破系?風に……)


 『壁、窓、鏡』が第五十七回北海道新聞文学賞詩部門本賞を受賞。おめでとうございます。
 受賞を報じる二〇二三年十月三〇日付北海道新聞記事には大きく「生きづらさなどの個人的叫びが主題だが『具体の内容が伝わらぬよう徹底的に抽象化した』」とある。ああ、こう読むのか、という想いと同時に、疑問が生じる。はたして「生きづらさなどの個人的叫び」が主題だろうか。「生きづらさ」や自分の「不器用さ」をも客観的に見つめて、「組版や装丁も含めて、世界に対するあり方を試み」ることができるほどの器用さだ。
 そこで一冊購入し、尊敬するある先輩詩人へ送った。お忙しい中すぐに読んでくださり、「短い一行、一行、詩行をつらぬく強靭な『私』性を感じます。意識の芯と言うべきでしょうか。」という感想メールを戴いた。さすが卓越な詩作者。本の帯にこのような言葉があれば必ず興味を誘う、読者を入口に導くような感想だ。新聞よりも鋭い……。しかし、何故かはぐらかされたように感じる。お忙しくてざっとめくった入口の印象を仰っているのではないか。詩集『壁、窓、鏡』の問題は「短い一行」の「意識の芯」だとは思えないし、「『私』性」はむしろ感じられない。「具体の内容が伝わらぬよう徹底的に抽象化した」成果だろうか、前作『あるわたしたち』にあった「わたし」がいない。「強靭な『私』性」、「意識の芯」という表現は、この詩集の特異性の説明には到底届かないし、詩の表現の無限の広がりを、急激に狭めているように感じる。
 この疑問はカニエ・ナハ詩集『用意された食卓』の帯の高橋源一郎氏による「いま、緊急に読まれるべき作品」というキャッチコピーのような推薦文を読んだときに受けた感触と似ている(「いま、緊急に」消費される作品だろうか……)。意味で読もうとしていないか。新聞記事は読者にわかりやすく伝える仕事だから仕方がない。これはこういうことですよ、と無理にでも意味づけしなければならない。書名、著者名、各詩篇のタイトルにまで空白を与え、匿名性を獲得したわくわくする試みを、「装丁の工夫」などと単純化されると急につまらなくなってしまう。「徹底的に抽象化した」という一言で片づけられる詩法でもない。「せっかちに薔薇を求めて安くあがるな」……岡田隆彦の詩行が浮かぶ。せっかちに意味づけてはならないし、意味を嫌いすぎてもならない。しかし「大意を述べよ」の習慣は、言葉の力を削ぐ。国語教育の弊害だ。意味は素材であっても詩の目的ではないし、詩は意味から言葉を解放する。意味で読まれる限りにおいて、言葉は兵器だ。軍を動かす命令や情報を、信じる力と疑う力の両方で戦うプロパガンダの武器であり、法治国家を統制するためのツールとして発達した。詩は言葉を意味から解放させる。同じ日本語であっても、道具としての目的や意味からの解放で新しい言語が産声を上げる。生誕の瞬間を生じさせる試行の成果は、意味で狭められたとたんに死ぬ。意味に揺さぶられながらも、意味づけられない辺境で言葉は謎として生きる。
 すると書き手にも責任がある。卓越な書き手はミステリーの渦を生じさせる。意味で読まれることを想定し、巧妙に罠を仕掛け、読者にミスリードさせる。以降展開するあらゆる驚きの効果を増す。読者は操られる。作者が仕掛けた罠が、「生きづらさ」や、「意識の芯」が「強靭」な詩集だとか、意味づける欲求を読者に与えたかもしれない。
もう一つ注意を払うべきなのは、詩作者の年齢に惑わされてしまっていないか。若い詩人は「生きづらさ」を抱えているだろうとか、「意識の芯」が「強靭」だろうとか、若さからイメージしやすい。ここにも罠があるようだ。先入観を放棄して読むと、『壁、窓、鏡』の実作には、ある種の老練さすら覚える。詩法の確かさと、方法論に溺れない距離の絶妙さや、偶然性にまで及ぶ配慮の豊かさが見える。高齢な詩人が書いたもっと若い詩はたくさんある。
 お叱りを受けそうな反論の書き方を試みたが、これまでの私の主張は推論にすぎない(次の章の後半で、この反論の反論を試みます)。判断を急いではならない。詩は言葉では言えない事象を言葉で表現する試みだから、詩に関わる言語運動に判断という機能は本質的に備わっていない。肯定と否定、有機と無機の境を越えて両極を行き来することで、振動を起こす表現の運動体が詩の言葉を生かすならば、意味の判断から距離を置くために、自己批判性を醸成させなければならない。少し時間がかかる。
簡単に書いてしまうことを恐れて、私はSNSでこの詩集の感想をアップすることを留保していた。すると二〇二三年十二月二十二日、故永しほるさんより思いがけず詩集評のご依頼を戴く。文量は二十五文字×二十五行二段組みで最低二ページ以上(なぜか制限の記載はない)。文学フリマ札幌が開催される九月二十二日発行の『砂時計』第六号に掲載。参考として『砂時計』第五号を送って戴く。
 どうやらこの原稿依頼は『砂時計』第五号を私にじっくり読ませるための罠であったに違いない。素晴らしい文芸誌だ。熱心な読者を一人獲得。

 

3 零 (ゆっくり解説風に……)


 『砂時計』第五号(文芸同人北十、二〇二三年七月発行)、故永しほるさんによる「弱い火を絶やさないために」を読む。ここに書かれているのは『壁、窓、鏡』制作時の創作法だろうか。詩作者の心の動きまでも克明に追体験させる実況的論考である。『砂時計』の読者には前号所収の論考の紹介など不要かもしれないが、詩集の特異性に繋がる手がかりが丁寧に提示されており、避けて通ることはできず、拙感想を交えてここに紹介させて戴く(以降〈〉内はすべて、故永しほる「弱い火を絶やさないために」(『砂時計』第五号)からの引用)。
 〈自分の創作活動を振り返ると、自らへの甘さと意志の弱さをつくづく思い知らされる〉……悔恨の告白で論ははじまる。〈飽きっぽく、集中力は長く続かない〉、創作に没頭できない自分への後ろめたさ。ここで二つの自覚が語られるのが興味深い。〈「書けなさ」を挙げるとキリがないのだが、それでもぼくはいつも「書きたい」と思っている〉、「書けなさ」の状態に身を置いている自覚と、「書きたい」と思っている、書くことへの不可避性の自覚。一見、だらしなさの告白に見えるが、「書けなさ」の状態に身を置くことで言葉になる前の言葉に浸かっている。詩作を開始しているようだ。浸かっている、といま私は書いた。詩人は水のイメージを扱う。〈弱々しくも灯っている火〉すなわち「書きたい」に、〈怠惰という水〉=「書けなさ」を近づけないための〈試行錯誤中〉の方法が語られる。
 もっとも難しい〈ゼロから一を生み出す段階〉、〈頭の中のイメージから言葉が浮かんでくる瞬間を待つ、あるいは、水面を波うたせる〉……ここでも水だ。浮かんできた言葉を〈掬いとって文字にする〉が、残念ながら書かれた言葉は〈頭の中にあったときには確かに存在していた輝きを失っている〉……「期待」は「幻滅」に変わり、再びモチベーションは低下し、「書けなさ」に近づく。「期待」と「幻滅」は〈そのまま「抽象」と「具体」の関係性に繋がっている〉と詩人は語る。思いついたアイデアは「抽象」であり、文字として「具体」化させることで〈イメージはどうしようもなく滅衰する〉、〈このギャップが「幻滅」の正体〉である。新聞記事には「具体の内容が伝わらぬよう徹底的に抽象化した」とあったが……。「幻滅」を第一段階とし、その「幻滅」を受け流しつつ、執筆持続させるために、詩人が採用した方法は〈メモを取ること〉であった。〈どんなに忙しい日々でも、何かしらのイメージをぼんやり頭の中に浮かべておく。それは現在進行形の作品のことでもいいし、もっと抽象的な「感じ」としか言いようのないものでも構わない〉、〈何かを思いついたら、それを精査せずにすぐ記録する〉、〈そんなアイデアが役に立つかは現在の自分にはわからないから、そこで判断を下すべきではない〉……まだ判断を下さない。創作の初期段階で客観性を育んでいるようだ。
 〈機械的な記録〉には二つの効能があるという。一つ目は〈できるだけ「幻滅」せずにイメージを具体化できる〉こと。〈「幻滅」することはモチベーションにとって致命的だ。だから、その行為を生活の中のメモとして薄く広く伸ばすわけだ〉……再び水のイメージ。〈メモは創作状態そのものを薄く広くする〉……メモも執筆である。妥協、許しにより〈弱い執筆状態を継続〉することが二つ目の効能。継続状態により〈ゼロを一にする〉ストレスを軽減し、〈緩やかな移行で本執筆に入る〉。ゾーンに入るための手法だ。
 数が膨大になるメモを管理するためにアウトライナーWorkFlowyを使用しているという。驚いた。WorkFlowyで創作する詩人がいたとは。WorkFlowyはパソコンでもスマホでも使用できる、箇条書きで文章を入力するテキストエディターで、それぞれの階層を自由に設定し、それらの階層を自由に折り畳める。〈メモを管理するだけでなく、一つのメモから書きながら考えることにも役立つ〉、〈さまざまなアイデアに優先順位を与えて管理することもできる〉が、発想を完全に秩序づけることはできない。〈将来的に書く予定作品のアイデアを先に思いつくこともあれば、突拍子もないアイデアを思いつくこともある〉ので、〈そういう場合のために、事前に適切な格納場所を作成〉し、機械的に格納する。不確実性への対策だ。
 誤解のないように書くが、WorkFlowyというアプリが創作するのではない。詩人がモチベーションの火を手懐けるように、自らを〈弱い執筆状態を継続〉に置き、日常的にアイディアのメモを溢れさせ、それを管理する道具としてWorkFlowyを駆使しているのだ。九段理江は生成AIを、安部公房ワープロを、小説執筆のツールとして使いこなす。故永しほるはWorkFlowyで詩作する。いずれも機械が書くのではなく、人間が言葉という道具に別次元の新たな道具を繋ぎ、表現の可能性を広げた。紙もペンもタイプライターも印刷機も道具だ。詩人はWorkFlowyのメモをWordへ手入力で書き写す。〈準備運動のように手を動かすことで頭も働いてくる〉とあり、いよいよ執筆のゾーンの深みへ進む。〈すでに白紙ではなくなっている状態から考えることが可能になる〉、〈隣接した言葉の関係から新しい言葉が生まれたり、新しい言葉を思いついたりする〉……詩が詩を呼ぶ。言葉が言葉を書かせる共鳴の化学反応のようだ。〈加筆やフレーズの並び替えなどをくり返すことで一行ができ、次第に連が生まれ、というように言葉がまとまってくるのだ〉……この過程で、詩人はある重要なことに気づく、〈書き手であるぼくは半ば「読者」になっている〉のだと。〈書くことの自動性によって自己の一部が他者になる。そうやってあらわれた思いも寄らない詩句との出会いは、書くことの炎を爆発的に大きくする〉……弱かったはずの火が、ついにここで爆発する。読者となり、他者性を獲得することで執筆のフロー状態に入った。振り返ると書く行為に至るまでの準備が長かったようだが、その段階も執筆状態であった。〈すでに白紙ではなくなっている状態〉を作り、本執筆の領域に入る。ある意味では、推敲も執筆だ。詩人は書き直しを重ねることで他者性を獲得し、読み手となり、書き手となる。読み手と書き手の境を詩人は瞬時に何度も越境し、何度も読んで、書き、直し、揺さぶる。書き終わった後も揺れは続く。エネルギー体の振動として詩は生きる。推敲への没頭で創作する詩人を私は何人か知っている。〈また、この自動性のほかにも、一種の他者性が書くことに働きかける事例がある〉と続く。これまでは〈自動性〉獲得のプロセスだった。それは爆発に至った。
 次に問題となる他者性は、〈賞の応募規定や掲載媒体の組版〉であり、何字何行といった規定に対する自らの創造的な折り合いのつけ方について詩人は語る。外部からの規定を枷のように感じるのではなく、形式を表現方法の一つと捉え、〈「限界」を「可能性」に変換〉する。〈「具体的な他者」から「そうしなさい」と強制されるほど苦しいものはない〉のだ。詩人は苦しみを扱う。「書けなさ」の苦しみ、「書きたい」苦しみ、苦しみや不確実性にクリエイティブな手法で対峙する。水のような見事な柔らかさ。前章で反論した新聞記事の「生きづらさなどの個人的叫びが主題だが『具体の内容が伝わらぬよう徹底的に抽象化した』」とは、「生きづらさ」すなわち詩人の「苦しみ」への対応として「具体と抽象」=「期待と幻滅」の両極運動を加速させる手法を獲得したことの暗示だろうか。また、ある詩人から戴いた感想メールの「短い一行、一行、詩行をつらぬく強靭な『私』性を感じます。意識の芯と言うべきでしょうか。」……「短い一行、一行」は溢れるメモの醸成であり、「強靭な『私』性」の鏡は他者性に至り、「意識の芯」とは「書けなさ」の弱さを自覚できるほどの柔らかな強さを見抜いた表現かもしれない。
 だが、創作論「弱い火を絶やさないために」は後半、予期せぬ劇的な展開を迎える。〈ここまで書いてきて、一貫して方法論を語るぼくに対して、異議を唱える自分がいることを無視できなくなった〉、〈書くことを語るのに、方法論に終始していいのか〉、〈実際のところ、ぼくはこれまで紹介したやり方によって自分自身を完全にコントロールできているわけではない〉……方法論に満足したとき、創作も詩法も死ぬ。〈手法を工夫してもなお、ぼくの「書けなさ」を未だに解決できない〉と語る詩人のまなざしを評価したい。読み手として、書く側が自己批判性をどう表現するかという問題を扱っている言葉を信頼したい。背後にそれがあるか。他者を批判するだけでは足りない。自己批判性を獲得せずして、批判に満ちた現代をどう表現するのか。自己批判性を獲得し、透徹に自己を分析し、あらゆる自分を自覚できれば、他者からの批判など痛くも痒くもないかもしれない。他者性を獲得しているからだ。完全になくすことのできない「書けなさ」を自覚し、〈言葉にならない予感〉に触れ、〈言葉を生み出しつつも、まだ言葉になっていない欲望が湧き続けていて、循環している状態〉を通過し、〈すでに白紙ではなくなっている状態〉から読者として書く〈他者性〉、弱かった火を爆発させる〈自動性〉へ導く。しかし詩人は手法を妄信するのではなく、突如、根本を疑う。疑うことで詩人が提示したさまざまな二項対立(「期待と幻滅」、「抽象と具体」、「自己性と他者性」)のどちらかに居座るのでも間を取り続けるのでもなく、せめぎ合わせたように、詩法そのものの根底を揺さぶり、破壊と創造の二つの極の反復運動を燃やし続ける。
 これはエクリチュール論であると思う。エクリチュール(書き言葉)とは作家が言語活動において社会の中で暗黙裡に了承されている決まりごとであるラングと、個々人が独自の経験によって形成した言語感覚であるスティル(文体)を乗り越えながら選び取るものであり、書く行為そのものへの態度を指す。詩人がどのような決まりごとを経験し、どのような言語感覚で詩語を選び取ったのか、その答えは匿名性に包まれ、隠されている。「弱い火を絶やさないために」では、書く行為へのモチベーションの獲得と、WorkFlowyによるメモの管理から創作に移行する他者性の獲得といった方法論が語られるが、創作のうえで、詩人が詩語を選ぶ判断の理由については一切語られていない。そもそも詩人はなぜ書くのか。「書きたい」という火を消さぬための努力は語られているが、なぜ「書きたい」のか、その理由については不気味なまでに、一切触れられておらず、まったく問題になっていない。だから私も本稿ではこれ以上書かれた詩そのものには触れない。詩人による社会的意図を示唆する手先は見えない。零度のエクリチュールだろうか。
 詩は詩法を想像させる。その迷路へ誘う。もしかしたらこの詩法と詩法そのものを疑うという姿勢が作品であって、それにより創出された成果物である実作は二次的なものかもしれない。言葉の試行で詩の器を形成し、試行そのものが生きた詩を湧かせる。これまでに出会ったあらゆる顔や会話や情景、あらゆる喪失や別れをも想起させるほどの壁に、二項対立の鏡を浮かべ、せめぎ合わせ運動させ続けることで他者性という窓を獲得し、詩を解き放つ。詩は目に見えない。言葉では言えない。言語以前の状態に触れ、誕生の手続きである詩法を育てても、確立させて古くすることを詩人は許さず、妥協せずに揺らし続ける。零と一の執筆を続ける。

 

4 目次 (あとがき風に……)


 詩とは何か、詩作とは何か、書く行為とは何かという根源的な問いに触れる異世界への導き。故永しほる詩集『壁、窓、鏡』の登場に、心から感謝したい。詩人は〈ぼくの最大の問題は散文を書くことである〉と書くが、詩の創作は小説や散文とは異なる。「散文を書く」または「書けない」という問題そのものを創作の手法へ転換し、詩語に広大な奥行きを与えているようだ。
 いま私は、六十八ページ「段階」を開き、壁、窓、鏡のそれぞれの段階を鑑賞する。変形の段階だろうか。創作の過程を鑑賞し、読み手の読み方の変化の段階を味わう。詩人が絶やさぬ火によって、操られた水の輪郭によって、詩人に選ばれ、いまの世界に表出された詩語の展開の段階を味わう。この「段階」を鑑賞させるのが詩集の凄さではないか。そして詩篇の表題が刻まれた目次の鑑賞を私は読者に薦める。詩人がなぜタイトルにこの言葉を選んだのか、どのメモが生かされたのか、立体的に、無限に想いを馳せる。
 私なりに全力を尽くしたこの拙い書評の試みは、ここで満足して完結させてしまうのではなく、何度も書き直したり、続きを書いてみたい。故永しほるさんのこれからの詩を読みながら、書き続けたい。何年かかるかわからないが、これで終わりにはしない。詩人への「期待」が「幻滅」に変わる予感がまったくしない。「幻滅」は「期待」へ導く罠だと思う。
 戴いた「二十五文字×二十五行二段組みで最低二ページ以上」の枠組みに感謝申し上げます。ご想定を超えてしまったでしょうか。ご迷惑をおかけしていないことを祈ります。

(詩誌「フラジャイル」主宰)


―初出『砂時計』第6号(文芸同人北十 2024年9月22日発行)