🌈新聞・雑誌など各誌詩評で好評!!
📘金井裕美子さんの新詩集『真っ白の皿』(地湧社)。詩誌「フラジャイル」に掲載の詩篇も収録されています✨
詩集の魅力について、佐波ルイさんに執筆をお願いし、とてもいい書評を書いて戴きました。「フラジャイル」第24号に掲載予定ですが、先行的にこちらにアップさせて戴きます。ぜひご覧戴けましたら幸いです。
写真は6月15日、裏小樽モンパルナスにて(左から佐波ルイさん、渡会やよひさん、金井裕美子さん、柴田望、福田知子さん)
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《書評》 金井裕美子詩集『真っ白の皿』
─日々のコトの描写がこころのコトバとなってゆく─
佐波ルイ
《支倉詩劇》 金井裕美子さんとは「支倉詩劇」で出会った。北は北海道小樽から南は兵庫県龍野へ。異なるところと人々の前でともに支倉詩を声にのせてきた。「詩」のコトバの霊力が身の内に染みこみ堆積してくるような体験。「支倉詩」を共有しつつ少しずつ金井さんの詩と人となりを知る。私は第一・第二詩集の頃の金井さんを知らない。
「支倉詩劇」に関わり始めたある日私は思い立ち前橋文学館に一人旅。初めて前橋駅に降り最寄りのバス停を探しつつおにぎりを食べつつ何故か金井さんと携帯で話した記憶がある。これが「詩人金井裕美子」が私の脳内に具体的に像を結んだ日だろう。金井さんは朗らかでお茶目。活動的だが背後に彼女独自の芯の強さと節度がある。私はそこに彼女の生来の資質と非凡を感ずる。控え目な金井さんを見落とすひともいる。書く人は「私」を押し出しがちだが金井さんはちょっと違う。押し出さずこらえるのだ。「こらえる」ことの必要を知っている。
《第三詩集『真っ白の皿』》 この第三詩集『真っ白の皿』で私は金井さんの大胆と思い切りのよさを知る。行数も字数も少ない作品に覚悟を感じ、一冊の詩集としての構成の大胆に驚く。作品を読み進む。そこにヒトの営む日々のコトの描写から感情の普遍性が浮かびあがる。金井さんは能の話をするときがある。詩を書く金井さんは面をつけて私の前で舞う。
「皿」である。白い半身魚や血のにじむ肉の付け合わせに今日の気持ちを添え日々食卓を囲み一日の終わりにヒトは皿を洗う。若い家族の幼い三人の子どもたちの屈託のない声をのせるキャラクターの皿はやがて若者の旺盛な食欲とにぎやかな三世代の大皿にかわりそして夫婦二人の食卓の皿となる。日本のここそこで「皿」の付け合わせがそっとあるいは乱暴に置かれ いつもは見ないようにしているものがどうしたってそこににじみ出てしまう。金井さんはそんな「皿」を自分のつけあわせをさらりと提示する。潔い。読む私はドキリとする。昨日の私の「皿」にその付け合わせがあったからだ。戦後高度成長期に子育てをして今夫婦二人の分かり合えぬ皿が落ちて割れる。
ところで、私たちはみな〈家庭〉という戦場の戦士である。《牡丹餠なら、半殺し/口を閉ざして、生殺し/静けさは透きとおった棘/冷えきって薄い膜がかかっている/(中略)/遠い遠い手のとどかぬ団欒の、/西窓は、閉め殺し》(「沈黙」)会話をなくす日に《わかり合えると思うのは病い/(中略)/もう/喉は見えない》(「会話」)と思うことがある。
そんなときギリシャ神話の虹の女神アイリスを切る。《生まれたときから/はじまったのだ/(中略)/そんなわかりきったことを/指にしみこませて/アイリスを切る/(中略)/人はすぎてゆき/雨はいくら待っても/くる気配なく/土はかわききっている/唇はひび/アイリスを切る》(「アイリス」)
相反する気持ちが共存するのが日常だから生きていける。はちみつは《注いだお湯のなかで/ほほえむようにやさしくとけた//かじかんだ両手でつつむと/つつみかえすまるい温度/(中略)/ゆうべのいさかい/後悔も/ゆっくりとけていく》(「はちみつ」)温かく甘いはちみつが私を慰撫して今日を生き延びる。草を抜くのもいい。《根元のひとかたまりを素手で握ってのけぞる/鈍い音をたてて空が見えた//(中略)/かたちを掴んでいると安心できた》(「草を抜いた」)
生きることはどうしたって猥雑でそこに〈おかしみ〉と〈にがみ〉がある。だから《見ていないふりして見ているのを、気づいているのに気づかないふりでふたりは、膨らんだ気づかないふりを押し潰すみたいに、ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう抱き合っている。》(「ジンジャーエール」)なんてことも書く。
不意に《三ツ辻で、白髪を三つ編みにした女に遇った。/(中略)地層の深みで目覚め、いましがた、やむにやまれず出るしかなかったという顔つきの石。おんなにもそんな風情があった。/(中略)/ふいに、この喉で、この口で、今までいくつも取りかえしのつかない言葉を吐いてきたのだと思った。(中略)わたしもいつしか石を打っていた。》(「おんな」)時空を隔てたわたしであるような女とわたしが石を打つ。両者は打たれる石でもあり、これは能の一場面のようでもある。
わたしにはまぼろしのような「あなた」なる他者もいて、ときにゆうれいたちが《枝えだに/たくさんぶらさがって/私たちを見おろしている》(「植物園にて」)。雨の庭園で《咲いていないのに/薔薇のかほりがした/わたしは右肩を濡らし/あなたは左肩を濡らした/(中略)/ひそやかに/海を持ち帰った》(「庭園」)この海は何の象徴だろうか。そっと内側に移すあなたの海。
そして生と死は近しい。《生まれてくるとき/死を抱えてくるんだね》(「クスノキ」)。生きる日々にふと思いだす過去の光景とフラッシュバックする気持ちがある。栗の薄皮を傷つけぬようにそっとそっと剥ぎ、時間をかけ幾度となく渋を煮こぼす。こういう集中する行為は身体の奥をしんとさせ《遠い日/やわらかな内部のことばを/語りだすまでには長い時間がかかった》(「栗」)ことを思いだす。
そして最後に思う。《行先は必要なかった/何処であっても大した違いはないのだから//そっと掬って水を飲んだ/沁みわたると生きているのを思いだせた》(「山の駅」)。


