詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■詩・仲間「ZERO」No.43

■詩・仲間「ZERO」No.43を御恵送賜りました。心より感謝申し上げます。

 森れいさんの「標本」、生きていたときの美しさをいかにそのまま標本にできるか。「誤解」があり、「方法にも決まり」があり、「その道」には「達人」がいる。「血を見ることのない美しい作業」であり、「大人も子供も瞳を輝かせ/正しい知識に聞きいっている。」という。そんな状況に対し、疑問符が置かれる。「今夜わたしは うなされるだろう」「低周波の不調和音が 少しずつ頭をしめつけていく」。だってこれは殺戮なのだ。指で胸を圧迫したり、「息があるときは/冷蔵庫で三十分の安楽死」をさせるなど、残酷な行為だ。詩の創作は、命を扱う、生と死を扱う行為かもしれない。無機物に魂を注ぐのではなく、逆のルート。美しく生きていたときの命をいかにそのままに、紙に書かれた文字という腐らない死体へ仕上げるために、「達人の指」で「胸部に合った昆虫針」で止めを刺す。例えば創作が作品の素材や源の命を奪う行為であり、そのおかげで凄い作品が創れたとしても、誇ることはできないというような、創作の世界の厳しい戒めを、読者として学ばせて戴いたように感じております。サムシンググレード、自然の見えない力の導き。タゴールの詩「この脆い器を おんみはいくたびも空にしては、つねに あらたな生命で充たしてくれます。」(「キタンジャリ」)を想起しながら、世の中のあらゆる問題に対峙する方法について、身の引き締まる思い。(4/11追記:小樽詩話会会報628号の森れいさんの御作品「朝のとびら」を拝読、「いましばらくは/人のかたちをして」という凄い詩句に出会えました感動、その「人のかたち」も与えられたものであるという発見の喜び、この非常時の下で文学の想像力がいかに重要であるかということを改めて考えさせられました。)

  綾部清隆さんの「なにか が」。この次に続く言葉は「変だ」とか「おかしい」。私たちは皆この気持ちを抱いている。「なにかが おかしい」「迫ってくるもの/痩せた意識に/からみついてこなくても/よさそうなものだが」それなのにからみついてくるのだ。迫ってくる。心労を及ぼす。非常事態が宣言された。公開を許された情報しか与えられない中で、どこからが非常事態なのか。どこまでは非常事態でなかったのか。非常時と常時の違いとは何か。その両方を絶え間なく行き来している。非常時でないとされていた時間の中にも、多くの非常時が存在していた。「なにかが おかしい」「卓上の皿には/寒流の魚が泳いでいたが/いまは暖流系の尾鰭がはねている」。詩作品「なにか が」は、決して告発しない。日常の不安、慣れ親しまれてきたものに生じている変形を知覚している。生活者の感性は騙せない。知らないうちに「ひたひた」と「しのび寄ってくる」危険の正体への対処にも文学の想像力が必要とされる…そんな思考に誘われておりました。

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