詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■【朗読】柴田望「マチュ・ピチュの頂き 第12の歌 〈兄弟よ、立ち上ってこい〉」

https://youtu.be/VZ8MY_HJgRo

■【朗読】柴田望「マチュ・ピチュの頂き 第12の歌 〈兄弟よ、立ち上ってこい〉」

第54回小熊秀雄賞贈呈式・囲む会
2021年10月9日(土) アートホテル旭川

受賞された冨岡悦子さん、高岡修さんへのお祝いと
贈呈式の記念講演で、パブロ・ネルーダ、江原光太のこと、
素晴らしい御講演を戴いた花崎皋平さんへの感謝をこめて

「マチュ・ピチュの頂き 第12の歌 〈兄弟よ、立ち上ってこい〉」
パブロ・ネルーダ
訳・大島博光 『ネルーダ最後の詩集-チリ革命への賛歌』(新日本出版社 1974年)より
*

 きみたちの 死んだ口をとおして
 きみたちの代りに わたしは歌うのだ
 だまりこんだ きみたちのくちびるを
 大地のなかで ひとつにあわせてくれ
 そして 奈落の底から 話してくれ
 まるで わたしがきみらと一緒につながれていたような
 あの 長い 長い夜について
 何もかも話してくれ 鎖のひとつひとつを
 鎖の環のひとつひとつ 足跡のひとつひとつを―
 きみたちの隠し持った匕首を 研ぎすまして
 そっとわたしの胸の中 手の中にしのばせてくれ
 黄色い光りの流れのように
 地に埋められた虎たちの流れのように
 そして思いきり わたしの泣くにまかせてくれ
 何時間も 何日も 何年も
 暗い時代も 星のうつる世紀も
 わたしにくれ  沈黙を  水を  希望を
 わたしにくれ  闘争を  鉄を  火山を
 磁石のようなからだを わたしに結びつけてくれ
 わたしの血の叫びに わたしの声に 答えてくれ
 わたしの言葉と血をとおして 歌ってくれ 

*******

第54回小熊秀雄賞贈呈式・囲む会 
乾杯のご挨拶(柴田望)

今回、小熊秀雄賞1次選考に参加させて戴き、
全国から寄せられた107冊すべて拝読させて戴きました。
本当にたくさんの素晴らしい詩集が寄せられた中、最初から際立っていた、お二方のご作品に出会い、
今日この日を迎えることができましたこと、幸せに感じております。

旭川市は、いま、中学生のいじめの問題で全国から注目されています。
現実的にどういう対応をしていくかという問題があります。
同時に、中学、高校、大人になっても、あらゆる集団や組織の中で、
他者と、あるいは自分の内なる声と、どう向き合って生きていけばいいのか。
恐怖や戸惑いを感じながら、多くの人が生活しているという普遍的な精神の問題に
文学は取り組まなければならないと考えられます。

今から98年前、大正12年、この旭川で牛朱別川に身を投げた、16歳の少女がいました。
山田愛子さん。友人関係の悩み、複雑な家庭環境も背後にあった。
そのことを興味本位ではなく、山田愛子さんの心に寄り添った、素晴らしいルポルタージュを書いた、
当時の「旭川新聞」の記者がいました。それが黒珊瑚と呼ばれた、詩人、小熊秀雄です。
このことは昨年亡くなられた、旭川の研究家、金倉義慧さんの著書に詳しいです。

小熊秀雄は、常に弱い側に立ち、発言し、行動した、
厳しい時代にも、そうした作品を書いた、強くて優しい詩人です。

冨岡悦子さんの『反暴力考』に出てくる、【少女】【少年】の心の内側のシークレット・ストーリーは、
時代を映す、無限の創造性に満ちた宇宙のようです。
でもどこか、深い絶望、諦めを強いられているような、影を感じさせる。
大人たちは、どうせ子どもだとか、考え方を否定したり、いじめられてSOSを出しても、
いじめではない、とか、子どもたちを尊重せず、決めつけるかもしれません。
こうした問題は大人の世界にもあります。社会的な構造の中で、
もしかしたら知らないうちに、被害者に、あるいは自分が暴力をふるう側に
なってしまっているかもしれない、だけどもしかしたら、敵だと思っていた、
あるいは隔たりがあった存在と、分かりあえるかもしれない、
通じ合えるかもしれない、という可能性、「想像」を与えるものが、
詩や文学の力であり、小熊秀雄が作品で示した姿勢にも通ずるのではないかと考えます。

『反暴力考』の26章、61ページのフリーハグ、桑原功一さんでしょうか。
反日デモの集会場に、目隠しをして立つ、「わたしはニッポンジンです、ハグしてください」
この感動的な、孤独な魂が他者との通路を見出せるようなシーンに
本当に心を打たれました。この帯にですね、「希望も、悲しみも」「善きことも悪しきこと」
「自在に跳躍」と書かれている、その跳躍の瞬間のような、感激をたくさん、この詩集から戴きました。
私なりの拙い読み方で恐縮です。本当にありがとうございます。

そして、高岡修さんの『蟻』、こちらも、手に取った瞬間に、頭を殴られるような衝撃を受けました。
何に驚いたかと申しますと、一冊で表現されている。
一行の文章とか、一篇の詩とか、そういう枠組みを超えて、一冊の詩集で表現されている、
今まで読んだことのないような、新鮮な、驚きを感じました。
(この本は真っ黒ですが、対となる、真っ白い、白装束の句集『凍滝』も出されている。)
そして蟻の巣を奥深く進みながら、日頃、集団のヒエラルキーの中、
ひたすら前のものへと隷属する生き方を強いられ、靴底の無意識に恐怖している。

私も、会社員ですから(笑)、いち読者として、この蟻たちの存在にものすごく共感します。
蟻の巣にも似た人類の社会構造に、刃物を入れて、新鮮な断面を見せつけられているような、恐るべき詩集です。

そして、途中、読んでいると、突然「蟻」を見失うのです。消えてはいないのでしょうけれど、
「えっ」っていう感じで、「蟻」がいなくなる。「カマキリ」と「木」に変わる。42ページから46ページの、
この中盤の恐るべきドラマティックな展開、今まで「蟻」が書かれていたのと同じように
「カマキリ」と「木」が書かれている、人類の運命が、社会構造が、照らし出されているという驚き!
何を視るかではなく、誰が視るかという問題、表現の凄さ…そしてまた蟻たちの
鎮魂の鐘、生と死の境を行き来する月の光、一つの点「、」、読点として、
舗道で踏みつぶされた一匹の蟻の死骸から、一瞬にして紡ぎ出される荘厳なビジョンを
目撃させられ、思い知らされる。「誰しもが蟻である」と書かれている。
「誰しもが蟻であることをまぬがれぬ」 戦争の時代も、戦後も、今の時代も、
私たちは蟻のような運命を強いられているのかもしれません。
「蟻地獄」という詩にはこのように書かれています。

「 砂がずり落ちてゆくのは 吸いこまれた蟻たちの声が今も消えず すり鉢状の斜面に
  なおも激しく 反響し続けているからである。 」

時代の《声》、詩に書かれた言葉は、たった一人の詩人によって書かれたものですが、時代を超えて
多くの人と響き合う、魂と共鳴する、それが詩の本質的な要素の一つであり、
小熊秀雄が厳しい時代に書いた、作品の核に触れるものではないかと考えます。

そうした声を感じる作品として、最後に、パブロ・ネルーダの詩を、朗読させて戴きます。
花崎皋平さんが記念講演で、ネルーダのこと、そして江原光太さんのことをお話戴き、とても感激致しました。本当にありがとうございます。まさに小熊秀雄の精神を継ぐ詩人として、江原光太さんの存在はとても大きなものです。

冨岡さん、高岡さんへの御祝いと、本日素晴らしい講演を戴きました、花崎さんへ感謝をこめて、
僭越ながら、マチュ・ピチュの第12の歌、兄弟よ、立ち上ってこい、
大島博光)訳を、小熊秀雄の精神と通じるものを感じますので、最後の部分を朗読させて戴きます。

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