日時 2024年6月15日(土)15:30~17:00
会場 大丸藤井セントラル7階スカイルーム札幌市中央区南1条西3丁目2
主催 サッポロ・アートラボ「サラ」
【動画】「生誕100年・安部公房と旭川」(柴田望) SAPPORO ART LABO ”SALA” LECTURES PROGRAM 2024年6月15日(土)
https://youtu.be/nJCM1eTS91s?si=9Cy0tsuE4oBIBadt
日本を代表する作家の安部公房は、一九二四年三月に生まれ、一九九三年に亡くなりました。昨年が没後三十年、今年が生誕一〇〇年になります。昨年末に旭川文学資料館で展示や講演・朗読会が行われ、東鷹栖安部公房有志の会も関わらせて頂きました。旭川文学資料館の展示には、安部公房の詩やリルケ論が掲載されている、北海道の詩誌「野性」も展示されました。昭和二十五年の五月号なので、芥川賞を受賞する一年前、更科源蔵ら北海道の大先輩の詩人たちとも関わりがあったことがわかります。「野性」には安部公房の弟の井村春光さんの詩も収められています。私は昨年一年間、俊カフェの古川奈央さんのお父様である、詩人古川善盛(ふるかわ・よしもり)さんのことをずっと追いかけて、江原光太さんの「妖」や「詩の村」、更科源蔵さんの「野性」と、古川善盛さんの活動を、道立文学館で古い詩誌を漁ったり、弟子屈の更科源蔵文学館でも調べたのですが、その過程でふと、若き安部公房に出会い、旭川東鷹栖の振り出しにもどったような、不思議なことがありました。二〇二一年に復刻された鈴見健次郎の第二詩集『雪の美しい國』(一九五一年)の冒頭にいくつか写真が掲載されており、一つの集合写真に何の説明もなく、中央に安部公房、右隣に吉田一穂が写っています。昭和二十六年頃です。同じページに更科源蔵の写真もあります。北海道の詩の世界と安部公房の繋がりについてはもっと深く研究していかなければならないと考えております。
『新潮日本文学アルバム・安部公房』(新潮社 一九九四年)の構成と評伝を三浦綾子記念文学館の初代館長で文芸評論家の高野斗志美先生が執筆されました。高野先生は日本における安部公房研究の第一人者です。一九七一年に日本で初めての安部公房評論の書籍である『安部公房論』(サンリオ山梨シルクセンター)を著しました。私は一九九五年に高野先生のゼミに入り、戦後文学やソシュールのラング、パロール、ランガージュから始まる文章構成法を教わり、その後も四年程、個人的に毎週水曜日にお会いして、本を頂いたり、同人誌を発行したり、三浦綾子記念文学館の立ち上げにボランティアで参加などの活動を通して、ご指導を頂きました。高野先生は安部公房がノーベル文学賞の候補になったときはコロンビア大学で講演をしたり、井上光晴が亡くなった一九九二年に中国瀋陽へ行き、一九九三年に帰ってきたら安部公房が亡くなって驚いたと仰っていましたから、先生の活動の舞台は海外にも及び、旭川にお住まいでしたが、日本における戦後の前衛文学の代表的な文芸評論家の一人でありました。高野斗志美先生から私は安部公房という世界を学びました。
安部公房は一九五一年に「壁」で芥川賞、一九六三年に「砂の女」で読売文学賞、六四年には「砂の女」の映画がカンヌで評価され、六七年にはフランスの外国文学賞を受賞しています。戯曲、シナリオ、テレビ番組の受賞歴もあり、作家、小説家の枠にとどまらず、演劇や映像といった分野でも注目されています。六〇年代には勅使河原宏監督の映画で「砂男」や「他人の顔」などが映画化され、今年は石井岳龍監督の「箱男」が公開されるということで大変注目されています。
二〇一二年に話題になった読売新聞の記事によるとスウェーデン・アカデミーのノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長が、「安部公房は急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」と強調、さらに、「三島由紀夫は、安部公房ほど高い位置まで近づいていなかった。井上靖が、非常に真剣に討論されていた」と語っておられたそうです。安部公房も井上靖も、北海道旭川にゆかりがある文学者で、本当に嬉しいことです。
世界的に多くの読者を獲得した安部公房の作品について、高野先生は『新潮日本文学アルバム・安部公房』の中で「安部公房が挑戦したのは、認識の古い構造をどのような方法でこわしていくかということであった。」「安部公房の作品は、現実をたんに描くのではない。それを破壊するための仮説と実験の空間である。」と論じています。小説形式を破壊する創造の実験が繰り返されたことの指摘。常識が変わる、非常事態が常識に変わる。コロナ禍の時代や、戦争によって日常生活や従来の価値観が奪われていく現代の人類の有様を予見するような前衛的な作品を発表し、二十一世紀の文明の問題を提起しました。
本日は「安部公房と旭川」という講演の題名ですので、まずは旭川との関わりについてお話しさせて頂きます。安部公房の原籍地は、北海道旭川市の東鷹栖です。安部公房のご両親は東鷹栖生まれです。明治二十八年にお祖父さんの安部勝三郎さんが、四国の香川県から当時の鷹栖村三線十八号に開拓農家として入植しました。安部公房のお父さん、浅吉さんは明治三十一年、長男に生まれ、近文第二小学校で学びます。お母さんの実家も東鷹栖に入植しています。井村亀蔵さん、四国の徳島県から鷹栖村一線十一号に入植、次女として生まれたヨリミさんは、近文第一小学校に学びます。父浅吉は上川中学校(現在の旭川東高校)、母ヨリミは旭川高等女学校(現在の旭川西高校)に進学。ヨリミさんは『スフィンクスは笑う』(講談社文芸文庫で入手可能)という小説を書いたことでも知られています。安部公房本人も、父がドイツ留学の際、母ヨリミの実家井村家に戻り、昭和六年から、近文第一小学校に一年半くらい在学しています。母ヨリミの姉ハルメは東鷹栖十一代村長を務められた飯沢益吉さんと結婚、益吉の長男である飯沢英彰は従兄弟になり、安部公房より三つほど年上でした。『笑う月』に収められている「蓄音機」に登場する従兄弟のモデルが飯沢英彰さんであると言われています。
安部公房自身が東鷹栖について書いたものはあまり多くはありせん。いくつか確認できるものとしては、全集(新潮社・全三〇巻)の十一巻「生きている辺境」という昭和三十四年に書かれた文章の中に「私の原籍地は大雪山麓、石狩川上流の上川盆地にある東鷹栖という村だが…」とあります。全集の三〇巻には、埴谷雄高に宛てて安部公房が昭和二十三年に書いたハガキが収められています。東鷹栖村一ノ十一の安部キミフサから埴谷雄高へ「今月末、札幌の長光太に会うつもりです」と書いたハガキを送っています。長光太は原民吉と親しかった、江原光太とも親交の深かった詩人です
安部公房の娘さんの安部ねりさんによる新潮社の『安部公房伝』(新潮社 二〇一一年)を読むと、小学校三年生の一年間だけではなく、毎年夏休みに大都会満州から旭川東鷹栖へ行っていたことが分かります。東鷹栖安部公房の会が発行した記念碑の除幕式のパンフレットに掲載の安部ねりさんからのメッセージによると、「道路に雪が積もっていた」「石狩川で泳いだ」など、小学校時代の東鷹栖の思い出を、安部公房は娘さんに語っていたようです。
東鷹栖の安部公房の会の活動についていくつか紹介させて頂きます。
一九九三年に安部公房が亡くなったとき、すぐに東鷹栖の人たちが動きました。東鷹栖公民館で「旭川市・東鷹栖ゆかりの作家 安部公房を偲ぶ展」(一九九四年一月)。現在の東鷹栖安部公房有志の会の顧問、森田庄一さんや当時の公民館の館長さんたちが、中心となって開催されました。その後、二〇一二年に旭川市東鷹栖公民館で行われた、「東鷹栖・安部公房はここにいた 講師、渡辺三子氏」の講演がきっかけとなり、「東鷹栖・安部公房の会」が結成されました。安部公房の従姉妹であり郷土誌「あさひかわ」の編集発行者でもある渡辺三子さんが、文学者である安部公房と、従姉妹として見た安部きみふささんの両面を、エピソードも交えてお話しました。渡辺三子さんは、安部公房の父浅吉の姉田中サワさんの長女で、父方の従姉妹にあたります。翌年二〇一三年の総会で記念碑の建立が提案され、会員全員の総意で建立計画がスタート。大学時代に安部公房の書斎に度々訪問されるなど親しくしておられた東京大学名誉教授でドイツ文学者の保坂一夫氏をお招きし、安部公房の素顔などを東鷹栖公民館でご講演頂きました。保坂一夫氏のお父様は東鷹栖町長を務められ旭川と合併後は市会議員として活躍された保坂正蔵氏です。講演会当日は会場の東鷹栖公民館講堂が一杯となり、廊下に椅子を並べるほどの盛況。その後、記念碑建立の話をさせて頂き、会の終わりに建立資金の一部にと寄附金を置いて帰られる方もありました。
記念碑の設置場所は、旭川市教育委員会と近文第一小学校の了解をのもと、安部公房が通学した近文第一小学校の校庭に決定記念碑に用いる石碑のために、飯沢さんから庭石が寄贈されました。この石は安部公房が幼い頃、従妹の飯沢英彰さんと遊んだ石ではないかと想像されます。刻まれた「故郷憧憬(こきょうしょうけい)」の揮毫は保坂一夫氏。基礎工事をした方も石材店の方も近文第一小学校の同窓生で、永年の風雪に耐える仕上がりとなりました。除幕式は近文第一小学校の児童も参加、平成二十六年一〇月十七日に行われました。保坂一夫氏、渡辺三子さん、当時の旭川市長も出席。多くの参加者に見守られ、安部公房氏の記念碑は、近文第一小学校の校庭で後輩達を励ますものとして建立されました。除幕式の様子はYouTubeでご覧頂けます。
二〇一二年の年末に近い頃、井村春光氏のご家族から東鷹栖安部公房の会へ資料を寄贈したいとの連絡があり、新潮社の方の立ち会いで資料を開封したところ、未発表の作品「天使」が見つかりました。全集にも収められていない作品です。「新潮」平成二十四年十二月号に掲載され、非常に話題となり、早々に売り切れとなりました。東鷹栖安部公房の会が関わった、大きな事件の一つでありました。
また、二〇一六年には渡辺三子さんが所蔵されていた三〇〇点以上もの貴重な資料を、東鷹栖支所に展示。東鷹栖安部公房の会会員が集い、展示作業を行いました。残念ながら現在は、マイナンバーの対応等で支所にスペースが必要になってしまったとのことで、資料は公民館に移動し、一部のみ展示されています。「郷土誌あさひかわ」の事務所に掲げるために砂澤ビッキが彫った看板も展示されました。渡辺三子さんは砂澤ビッキとも非常に親しい間柄の方でした。この看板は、私が三子さんのお宅にお邪魔した際に、ぜひ展示してほしいと三子さんに頼まれ、お預かりし、震える手で大切に封筒に入れて大切に運びました。裏側に「1986 BIKKY」というオレンジ色の絵の具で書かれたサインがありました。渡辺三子さんが長年編集発行された郷土誌「あさひかわ」には安部公房の記事も多く、発行当時の旭川の文化、経済、街の様子、当時の政治家や有名人の話題、どんなお店があったかということが浮き上がってくるような本当に重要な文献です。三子さんの所蔵資料展示は各メディアで報道されるなど、大きな注目を集めました。その中に、非常に興味深い資料があります。日本文学研究で世界的に有名なドナルド・キーン氏と渡辺三子さんがお二人で写っている写真です。旭川がニューヨークとつながった瞬間のような写真です。ポスターもありますが、一九九六年四月、ニューヨークのコロンビア大学で行われた「安部公房国際シンポジウム」のときの写真です。ドナルド・キーン氏の呼びかけにより、世界各国から安部公房文学の研究者たちが集い、シンポジウムが開かれました。日本人の一人の作家について、このような催しが外国で開かれるというのは、大変珍しく、安部公房の作品が世界中に翻訳され、読まれていることが分かります。
現在、インターネットで「安部公房国際シンポジウム」に関する記事を検索しても、なかなか出て来ませんが、筑波大学のデータベースから、一つ資料を発見できました。当時実際にシンポジウムに参加された、李貞煕(イ・チョンヒ)博士のレポートです(李貞煕「安部公房国際シンポジウムに参加してーアメリカ・ニューヨークのコロンビア大学にて The International Kobo Abe Commemorative Symposium」一九九七年三月十九日「文学研究論集」)。一九九六年、四月二〇日から二十二日の参日間の様子の詳細なレポートです。アメリカ、フランス、ポーランド、ドイツ、日本からも著名な研究者が発表された内容などが書かれています。このような記述があります。「私の記憶にいまもありありと浮かぶのは、安部公房に対して大江健三郎氏がノーベル文学賞受賞の知らせを聞いた直後に受けたインタビューで、安部公房さんがもらってもよかったのに、たまたま生き残っていた私が受賞したと述べていることである」ということです。レポートはこう続きます。「高野斗志美氏は真能(まの)ねりさんとの対談の中で安部公房の文学を読むことは、二十一世紀の文明テキストを読むことだ、と語っていることも、同じ評価の延長上にあるともいえる。安部公房は二十一世紀が解決しなければならない問題をほとんど提出している。たとえば、国家の問題、都市の問題、そして言語の問題などが二十一世紀の問題としてもあげられる」。「二十一世紀が解決しなければならない問題」…安部公房の仕事の評価についての重要な記述ですが、その中で高野斗志美先生の言葉がこのように引用されています。
(東鷹栖安部公房の会 活動)
・二〇一五年八月二十三日 片山晴夫先生の講演
「戦後文学の中の安部公房」(東鷹栖公民館)
・二〇一六年一月二十三日『無名詩集』朗読会(東鷹栖公民館)
・二〇一七年二月二十五日『無名詩集』朗読会(旭川市中央図書館)
安部公房が使用していたシンセサイザー(EMS Synthi AKS)の音色を流し、同時に『無名詩集』朗読をするという非常に前衛的な試みでした。
昭和二十二年(一九四七年)、謄写版印刷の自費出版で発行された『無名詩集』、安部公房がまだ世の中に知られる小説を発表する前に出版された詩集です。リルケやハイデガーの影響が色濃く、満州での青春時代について書かれたのではないかと言われています。
私が尊敬する先輩詩人の菅原未榮さんから頂いた「北方文芸」一九九七年二月号に掲載されている「安部公房論」、晩年の高野斗志美先生によるこの評論に詳しく論じられていて、満州時代の親友が敗戦後に命を落としたことが、安部公房の非常に重要な原体験であり、その後のすべての創作活動に大きな影響を与えたのではないかという鋭い指摘が書かれており、『無名詩集』終盤に収められている散文詩「ソドムの死」がその手がかりの一つになります。「ソドムの死」に登場する三人の詩人は、それぞれの学びのために旅に出て、旅の末に荒れ果ててソドムの地に戻り、 故郷の滅亡とともに毒杯をあおって自殺します。この「愛し合っていた三人の詩人」、それから『無名詩集』の「祈り」という詩に登場する「僕ら」とは、安部公房と満州時代の親友、金山時夫、諸勝元がモデルになっていると考えられます。 満州に住んでいた頃の幼馴染で小学四年生(昭和一〇年頃)から中学校も一緒、それ以降も大変親しく、一緒にスポーツをしたり、文学の話をしたりという仲でした。金山は旅順高校、安部公房は日本の成城高校へ通います。昭和十九年、東京大学にいた安部公房と、東京工業大学に通っていた金山時夫は、敗戦が近いという噂を聞き、とつぜん「行動への情熱と希望」が蘇り、「学校には無断のまま、診断書を偽造、憲兵の監視の目をくぐって」海を渡りました。 二人は日本を脱出し、安部公房は奉天、金山時夫は新京の家族の元に戻り、時々諸勝や安部公房に会いに奉天を訪れ滞在し、三人は蓄音機でベートーベンやショパンに耳を傾け、話は尽きなかったそうです。
「敗戦の色濃くなった昭和二〇年八月、金山は家族と共に疎開列車に乗り、安東に逃れた。しかし何を思ったのか時夫は末の弟を連れ、逃げてくるたくさんの人の流れに逆行し、新京に舞い戻ってしまった。公房は人の便りに親友が中国人たちと共に盗みを働き、そのうちに結核性の肋膜炎となり、翌年の七月、時夫は死んだと知らせが届いた。」講談社文芸文庫の『終わりし道の標べに』に収められたねりさんによる「著者に代わって読者へ」という解説にはこのように書かれています。ソ連軍支配下の新京で、国民党軍と八路軍の銃撃戦があった。中国内戦のはじまりである。一九四六年五月一日、飢えと衰弱のすえに、結核性肋膜炎で金山時夫はみじかい生涯をとじた。その些細を安部公房は一九五一年に、金山時夫の末の弟から聞いた。死によって完結した友の思索をたどって、三冊の大学ノートに小説を書いた。それが『終りし道の標べに』の成立事情であるとのことです。
真善美社版の『終わりし道の標べに』の冒頭に、安部公房はこうに書いています。「亡き金山時夫に 何故そうしつように故郷を拒んだのか 僕だけが帰って来たことさえ君は拒むだろうか そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、 記念碑を建てようとすることは それ自身君を殺した理由につながるのかも知れぬが…」 安部公房たちの故郷は、敗戦で混乱、崩壊した満州の奉天、新京のことです。「ソドムの死」では、荒れ果てた故郷を飛び出し、旅をすることで、生きる誇りや愛を取り戻し、故郷に帰り、故郷の街で、三人は喜んで自殺します。詩には《彼等の死はソドムの最後とは何のかかわりも無かった》と書かれています。 故郷、祖国の死とは、関係のない、三人の親しい詩人たちの自死があった。軍国主義的な殉死とは性質が異なるということか、分かりませんが、三人の詩人の自殺という表現でしか表せなかった段階がありました。
『安部公房伝』に収録の大江健三郎のインタビューには、安部公房にとって、とくに『終わりし道の標に』の頃の「一番最初の友人たちが非常に重要じゃないかと思うんですね」という発言があります。「郷土誌あさひかわ」に掲載の「安部公房の作品を読む~追悼の美しさ。そして、別れ。―亡命の青春へ~」という題名の論で、高野斗志美先生は『無名詩集』を次のように書いています。「もはや永久にとりもどすことができない時への、 還らざる時への無限の追悼を、作者は書きあげています。 死をひかえた時のなかで、純粋な異端の詩空間を共有しあった青春たちの生の形 ぼくは、新しい涙がまぶたに集まり、胸がつまります。しかし、詩集は同時に、失った時への追想に終わってはいません。詩篇のおわりに置かれた「倦怠」は次のようです。〈蜘蛛よ/心の様にお前の全身が輝く時/夢は無形の中に網を張る/おお、死の綾織よ/涯てしない巣ごもりの中でお前は幻覚する/渇して湖(うみ)辺に走る一群のけだものを」 死・孤独・実存すること。それらに巣ごもりすることではなく、作者は想像力(蜘蛛)によって、無形の空間(夢)に挑み、〈渇して湖辺に走る一群のけだもの〉を描きだす。すでにここには代表的な短編小説である「赤い繭」の祖型さえ予感させられます。 散文詩『ソドムの死』にはこの意味で重要な思想が―― 日本と満州という故郷の消滅のうちに死んだ、 青春の魂の、孤独のさらに孤独のうちに生の確証を得るにいたる 安部公房の思想が語られています。」(『安部公房を語る 郷土誌「あさひかわ」の誌面から』 渡辺三子・田中スエコ 編 二〇一三年 あさひかわ社)
『無名詩集』のおわりには「詩の運命」というエッセイが書かれています。 これは、もう二度と詩を書くことはないという、決別宣言です。 『無名詩集』を発行することで、詩と訣別し、 やがて新しい創作の手法を獲得し、代表的な小説を次々を生みだします。 詩を終わらせることが、安部公房の創作の出発点になりました。この『無名詩集』の朗読会を私たちが開催した二〇一七年は「東鷹栖安部公房の会」活動五周年でした。以降、朗読会、講演などを積極的に行いました。
・二〇一七年一月二十八日 『デンドロカカリヤ』朗読会 (東鷹栖公民館)
・二〇一七年八月一日 読み聞かせ『豚とこうもり傘とお化け』(近文第一小学校)
・二〇一七年八月二十六日 片山晴夫先生の講演「安部公房の戦後作品を読む」(東鷹栖公民館)
・二〇一八年一月二十七日 『水中都市』朗読会(東鷹栖公民館)
・二〇一八年六月二十三日 片山晴夫先生の講演「安部公房の小説の方法」
・二〇一八年八月一日 読み聞かせ『おばあさんは魔法使い』(近文第一小学校)
・二〇一八年八月一日 渡辺三子さん御逝去 会報・追悼号
会報(追悼号)でも紹介しましたが、昭和五十二年、一九七七年、安部公房スタジオの「イメージの展覧会」の公演が旭川市の四条にあったヤマハホールで行われ、八百人もの観客を集めたとき、旭川を案内したのは渡辺三子さんと高野斗志美先生でした。渡辺三子さんの残した資料の中に、その時の写真が展示されています。安部公房が当時の松本市長を訪問した様子や、優佳良織の木内綾さんとご一緒のお写真があります。居酒屋大舟には今もその時の宴会、佐藤喜一さんや、山口果林さんも写っていて、居酒屋大舟の宴席に楽しげなご様子の写真が飾られています。
・二〇一九年二月二十三日 『棒になった男』朗読会(東鷹栖公民館)
・二〇一九年七月六日 村田裕和先生の講演「安部公房を語る」(東鷹栖公民館)
・二〇二〇年一月二十五日 『魔法のチョーク』朗読会(東鷹栖公民館)―アルゴン君の「魔法のチョーク」を朗読。ピアニストの佐藤道子さんによるバロック音楽のピアノ演奏をBGMに朗読するという豪華な朗読会を開催。
・二〇二〇年四月~六月 旭川開村一三〇年記念企画・安部公房「人と作品」(旭川市中央図書館二階での展示)―旭川市中央図書館の岡本主査のご尽力により展示開催が実現しました。
・二〇二一年一〇月一六日(土) [氷点カレッジ]文学講座「旭川と安部公房」 三浦綾子記念文学館―コロナで何もイベントができなかった時期ですが、ありがたいことに三浦綾子記念文学館からお声掛けを頂きました、オンラインの講義です。
・二〇二一年一〇月二十三日(土)「氷点カレッジ]文学講座「安部文学の世界観」 三浦綾子記念文学館
―現在もYouTubeで閲覧できます。私がこの文学講座「安部文学の世界観」でお話したのは、安部公房が昭和二十九年に発表した、初めの戯曲のことです。安部公房の戯曲「制服」について、昭和三〇年に発行された旭川北高文芸部の「路傍」という発行誌に、二十六歳の高野斗志美先生が書いた評論が掲載されました。静岡の詩人で「くれっしぇんど」を発行されていた高橋絹代さんが私にコピーを送ってくださったのです。高橋さんは北高の文芸部に所属されていました。「黄色い鴉の神~安部公房作『制服』についてのぼくのノート~」という題名の高野先生の安部公房論を、このとき三浦綾子記念館で紹介させて頂きました。
安部公房の初めての戯曲『制服』は、一九五四年十二月、雑誌「群像」に発表。翌年三月に新劇の劇団「劇団青俳」が上演。舞台は敗戦の二年前、北朝鮮のどこかの港町です。主要な人物として、まずはこの三人、主人公は職を失った元巡査の日本人、チンサアと呼ばれる制服の男。ひげ、ちんば、という二人の日本人。ちんばが密造酒を作り、制服の男が制服の権威で渡りをつけて、ひげが密造酒を売るという間柄でした。しかし、制服の男は巡査の退職金二千円を手に、日本へ引き揚げようとします。船の切符を買って、内地に土地を買って暮らそうとするかれを、ひげとちんばが引き留めて、お酒を飲ます。気がつくと制服の男は死んでいて、幽霊になっている。同じく幽霊になっていた朝鮮人の青年に、なぜ自分が死んだかを尋ねるのですが、わからない。しかし、刑事の取り調べや、仲間たちの様子を見ていると、だんだん色んな事が分かってきます。死んだ夜、自分が酔って朝鮮の人たちに対し、暴れたこと。朝鮮人の青年は殺人の濡れ衣で疑われ、殺された。自分の女房とひげが共謀していて、自分を殺した。ひげは結局、ちんばを殺し、女房を殺す。それを見ていた郵便局員には逃げられて、殺し損ねる。幽霊たちがひげを囲む。ひげは見えるはずのない死人たちを見まわして怯えて逃げる。幽霊の制服の男は女房やちんばたちに、まだそんな服を着ているのか、制服は脱いじまえと言われても脱げない、という、衝撃のラストです。
高野斗志美先生は、この戯曲の中で、「制服」という当時の権威の象徴をまとった一人の日本人の行いのせいで、朝鮮人の青年が犠牲になる、日本人の罪を着せられて朝鮮の人が殺されるというところにもっとも注目しています。
「ぼくらは朝鮮の詩人・許南麒(きょ・なんき)の『朝鮮冬物語』やあの感動的な『火縄銃のうた』をしっている。そればかりではない。たとえばぼくらは最近雑誌「思想」に紹介された山辺健太郎氏の論文、『三・一運動の現代的意義』(「思想」、一九五五年六・七月所載)を読むことによって、朝鮮民族の巨大な独立運動の波について多大なものを学びうるだろう。そして、『制服』のなかで朝鮮の青年の発する言葉が、作者の主観的な意図からつくりだされたものではなく、それは、日本帝国主義の残酷な武力支配に抗して、それに耐えて生きぬいてきた朝鮮民族の歴史のなかから必然的に生まれてきているのだということをぼくらはしるにちがいない。『制服』において朝鮮の青年ひとりが人間的な存在者として描かれる必要があったのは、まさに右の事情による。一九〇五年以来、朝鮮の民衆は日本帝国主義に抵抗しなければならなかったのである。そしてその抵抗の歴史こそが朝鮮民衆の生活の内容に一切の人間的とよばれうる性格を与えたのである。」
許南麒(きょ・なんき)は朝鮮・韓国の詩人です。一九一八年に生まれ、一九八八年に亡くなりました。詩誌「列島」創刊時に編集委員として参加されていました。作品を探し、青木文庫の『火縄銃のうた』を読みましたが、親子三代にわたり、日本政府の圧政と戦った。民族の悲劇、壮絶な長編叙事詩でした。
歴史家、労働運動家の山辺健太郎の論文『三・一運動の現代的意義』が紹介されました。『コミンテルンの歴史』やメーデー禁止反対運動などで有名な方です。三・一運動とは、一九一九年(大正八年)三月一日に日本統治時代の朝鮮で発生した、大日本帝国からの大規模な独立運動のことです。戯曲『制服』に登場する朝鮮の青年の歴史的背景を理解する手がかりとして、この二人の名前が挙げられています。
高野先生がこの評論を書いた昭和三〇年は、敗戦からちょうど一〇年、経済が復興し、日本全体が敗戦の頃の感覚を忘れ始めているような状況の中で、十六歳で敗戦を迎えた二十六歳の高野先生は、この評論の最後に、何かを忘れるなと書いています。
「ぼくらは、ぼくら日本人の生の背後にかくされている墓のうえの無数の白い貝粒の声をきかなくてはなるまい。ぼくらは、まわりの大きなおとし穴になれきってはならないのだ。生の世界に確実に生きることのなかでおとし穴のからくりをみやぶらなければなるまい。そのとき、ぼくらは、おとし穴のうえに喜劇を踊らせることができるし、喜劇を喜劇としてつくることができるだろう。」これが「黄色い鴉の神~安部公房作『制服』についてのぼくのノート~」の最後の言葉になります。
この戯曲は、じつは朝鮮人の青年のエピソードは決して物語のメインではないのですが、高野先生がこのような評論を書いたヒントとなる資料として、二〇〇〇年から二〇〇一年の北海道新聞に連載された「私のなかの歴史 文学を武器として」という、高野先生がご自身の歴史を振り返る連載の中、重要なエピソードが語られていましたので、紹介させて頂きます。第一回「親友の怒り、軍国少年の自分と訣別」です。
十六歳の夏に、私は敗戦を迎えました。敗戦でショックを受けてい
た私は、友人に向かって「戦争に負けて希望も何もなくなった、腹で
も切るか」と口走りました。その時、友人の一人が烈火のごとく怒鳴
ったのです。「ばかなことを言うな、われわれがどんなに苦しい気持
ちでいるか、おまえたちに分かるか。この半島の気持ちが分かるか。
「半島」とは、朝鮮半島のことです。戦時中、日本人は朝鮮人のこ
とを「半島、半島」と言ってさげすんだのです。彼は朝鮮人でした。
そのことで私たちが彼を差別することはまったくなかった。それどこ
ろか、彼は私が最も心を許せる親友でした、その彼が、これまで一度
も見せたことのない怒りをこめて、私を罵倒したのです。
私はその時、自分がこれまで全く知らなかった大切な何かに真正面
からぶつかり、引き裂かれたように感じました。それは軍国少年とし
て無邪気に戦争に巻き込まれた、少年時代の私との訣別でした。「あ
あ、おれは大人になるのだ」そう実感しました。
やがて私は、文学を武器とする道を歩みはじめました。その出発点
はどこにあるのか、いま振り返ると、中学時代のあの鮮烈な記憶に行
き着くのです。
彼は翌年の冬、朝鮮へ帰って行きました。雪の降る富良野駅ホーム
で、私は彼を見送りました。学生服にマント姿。前途への気迫に満ち
た彼の目を、私は忘れません。彼の乗った船が玄界灘で沈んだと知っ
たのは、私が教師になってからのことでした。
―高野斗志美「私のなかの歴史 文学を武器として」
(北海道新聞 二〇〇〇年一月十七日付)より引用
この記事と、北高時代の「制服」論を読んだときに、私はようやく気づいたんですね。ああ、高野先生が「北方文芸」終刊号に、あんなに壮絶な『無名詩集』論を書いて、安部公房にとっての金山時夫という大切な存在を理解することができたのは、高野先生もまた、敗戦とともに、もう一人の自分のような、大切な友人を失っていたからなのだと。その友人の船が沈んだことを知った直後にこの「制服」論を書いたのではないか。敗戦によって、それまで生きてきた世界や価値観と無残にも切り離された、壮絶な原体験があった、その共感が、安部公房の最大の理解者としての文芸評論家高野斗志美の、凄まじい仕事につながっていったのではないかと、高野先生が亡くなられて二〇年後に、そんなことを三浦綾子記念文学館でお話をさせて頂き、詩誌「フラジャイル」十七号の別冊に講演録を収録致しました。
コロナ禍が明けた二〇二三年一〇月一五日(日)、東鷹栖安部公房有志の会主催「安部公房没後三〇周年記念」特別講演に鎌田東二先生(詩人・宗教学者・哲学者、京都大学名誉教授)をお迎えし「安部公房―仮(化)の文学」、安部公房ゆかりの地で記念すべき講演を開催させて戴きました。鎌田先生の講義は安部公房の仮(化)、化けると仮の「仮説」について、小説『壁ーS・カルマ氏の犯罪』の《とらぬ狸の皮算用》とはつまり仮説、例えば国境というものも、人間が作り上げた仮説にすぎない、ボーダー、我々が真実だと思っているものを一回取り外してみよう…という実験。ボーダーレスの感覚は、安部公房が幼少期を過ごした満州・奉天という、当時、東京よりも都会であった、劇場のように、短い期間で築かれ、敗戦とともに失われた都市で育まれたと考えれます。敗戦により、それまで当然として存在していた生活の場を奪われた。価値観が一転した。世界がぜんぶひっくりかえった…『燃えつきた地図』、『箱男』、『密会』…都市の文学、都市に存在の可能性を追求し続けた安部公房の創作の原点の秘密に迫る貴重なご指摘を、鎌田東二先生にお話戴きました。
東鷹栖安部公房の会では、北海道教育大学旭川校名誉教授の片山晴夫先生の講演を毎年開催しておりました。片山先生からは、安部文学の特徴を反リアリズムと位置づけ、日本の伝統的な私小説のようなリアリズムの文学に対し、反リアリズムとは実生活ではありえない題材を書く反逆の文学。本当の真実を書くために安部公房は反リアリズムの手法を用いたというご教示を頂きました。現実ではありえない、主人公が植物になったり、壁になったりということですが、安部公房の初期短編群は人間以外のものに変形する人間の物語、「変形譚」と呼ばれます。文芸評論家の本多秋五が、安部公房のデンドロカカリヤに「観念小説から抽象小説への道」を認め、人間から植物への変形の手法を「幾何学の補助線」と名付けました(『物語戦後文学史』)。補助線である変形の手法を媒介として、安部公房は人間主体の新しい確立地点の発見をめざしている、と高野斗志美先生は論じています(『安部公房論』)。詩人の吉増剛造氏は二〇二三年一〇月七日、旭川の井上靖記念館のトークイベントで、詩や芸術は「ほんのちょっとした瞬間に「別世界」があるなっていうのが勝負」というお話をされました。吉増剛造氏のお話から、カフカの小説「城」に登場する、主人公を異世界へ導く一枚の板切れ、吉田一穂の本人の手書きの生原稿に見られる、原稿用紙の升の中央に置かれる句読点の特徴なども異世界への入口なのだろうかと想像を膨らませます。安部公房の小説の方法にも「異世界」「別世界」の入口から変形へ導く、機能の様々な実験が読み取れます。
全集の第一巻を読むと、若き安部公房はハイデガーの影響を強く受けていたようです。日本でハイデガーは戦前とても流行っていたのですが、存在、または非存在とは何かという問題について、エッセー「詩人の運命」には、〈世界の中に自分がいる〉という状態と〈自分の中に世界がある〉という、異世界となる両方の状態を光の速さで行き来する、それが詩人の持つ運命であるということが書かれています。存在の越境の感覚をもった安部公房が変形を書くとき、一人の人間の変形であったとしても、社会構造の変革や大きな時代の移り変わりが表現されていたと考えられます。満州の奉天で暮らしていた安部公房は、一九四五年に医師として患者の診療にあたっていた父親が発疹チフスに感染して亡くなって、日本の敗戦と同時に社会の基準が徹底的に壊れるところをまざまざと目撃しました。政府・警察がなくなれば、世界観は変わり、まさに「ジャングルに放り出された子ども」であった。『反劇的人間』(中央公論新社 一九七九年)というドナルド・キーンとの対談で、安部公房はその様子を克明に語っています。
「変形を経験することで、主人公はたしかに、自己の発見を行う、非人間的な状況に呪縛されている自己と、そういうあり方を拒否し、呪縛をきり払おうとする自己とを、同時に発見する。形成さるべき《私》は、変形した自己を超え出るくわだて、それを担う無形の自己を素材として登場するだろう。」(高野斗志美『安部公房論』) 植物的なものとの戦いを経て、鉱物的、無機質的なものが、私を構成する質に変貌してくる。それが「自己の発見」、本当の自分を見つけることにつながっていくと論じられています。高野先生の『安部公房論』を読み返して気づいたのですが、フランスの哲学者、ジャン・ポール・サルトルは、実存は本質に先立つと言いました。名づけることのできない無形のもの…、例えばどろどろした鉄の塊の実存からペーパーナイフが造られて本質となる役割を獲得していく。実存は本質に先立つということですが、実存が、植物や壁や棒といった「本質」へ変形を強いられる過程が克明に書かれることによって、予期せぬ「本質」を獲得していく運動に読者が気づくのと同時に並行して、それ以前の、「無形」であり「名づけることのできない」段階があったことをだんだん読者に気づかせる、という創作の多次元構造的な実験の試みが、安部公房の作品の中で行われていたのではないか、そうした哲学的な面も注目されて、サルトルのフランスでは特に歓迎されたのではないかと考えました。
『砂の女』は、「砂が流動している」という認識が、「流動のそのものが砂なのだ」に変化していく、主人公の仁木順平は最初は昆虫好きの教師という職業上の一応の本質を持ちながら、じつは生きる目的や名前もあってないような、ある意味無形の自己のような実存でしたが、砂の集落に捕われて、逃れようと何度も試みるわけですけれど、物語の終盤では完全に変化してしまって、「砂の女」とともに村の立派な構成員の一人としての役割のような、当初とは別の本質を決定される。穴から這い出るための梯子を得た後も、元の都会の生活へは逃れず、辺境で生きることを当然に選択します。『砂の女』はそこへ至るまでの、実存が剥き出しにされていくような壮絶な変形の過程の、心の動きまでが克明に記された恐ろしい書物です。サルトルの実存主義に安部公房の文学を当て嵌めようとすると恐ろしく色々なものを見落としてしまいそうで、お叱りを受けそうな危険性もありますが、あえて今日は、私自身の最近の経験が、一つの役割というか、本質のような出会いを得たように感じておりましたので、あえてこのお話をさせて頂きました。
令和三年に私は旭川市文化奨励賞を頂き、一〇分間、講演の機会を頂きました。旭川のいじめの問題について、文化に関わる者の視点から、安部公房が日常と非日常、価値観の転換という表現に取り組んだ文学者であることから、例えば、あるグループの中で、「あの子をいじめよう、だってみんながいじめている、それが普通なんだ」という行動が決定されてしまう「普通感覚」を、「いじめはよくない」「あの子を助けよう」という別の普通に変えていく、集団の日常を非日常へ、その非日常を日常の常識へ変形させる、アナザー・スタンダード、《もう一つの常識》に通じる文学の想像力についてお話させて頂きました。
ところがその後で、実存や本質について考えさせられるような事件が起こりました。二〇二三年一月、タリバン暫定政権によるアフガニスタン国内での「詩作禁止」の発令に抵抗し、オランダに亡命中のソマイア・ラミシュさんという勇気ある女性の詩人が、世界の詩人たちへ「詩を送ってください」というメッセージを送りました。「ウエッブ・アフガン」の野口壽一編集長からそのご連絡を受け、協力させて頂き、全国の詩人の皆さんにSNSを通して「タリバンによる詩作禁止令に抵抗するための詩を送ってください」とお願いし、日本からは三十数篇の詩が集まりました。今の日本では「詩を書いてはならない」と政府が発令するのは考えられないですが、アフガニスタンでは詩や芸術が禁止され、女性の基本的人権、就業や教育の機会も奪われており、日本の私たちからすると非日常の世界が、実際に存在する、そして私たちの国もかつては今の日常とは異なる世界だったということを、改めて実感させられました。ソマイア・ラミシュさんにとって、こうした活動を行うのは、命を狙われる危険なことです。彼女のメッセージに反応し、世界の詩人たちから百篇以上の詩が集まりました。その百篇程のうち、海外詩人二十一名、日本の詩人三十六名の詩を収めた詩集を、二〇二三年八月十五日、カブールがタリバンに陥落したちょうど二年後に日本で発行しました。この編集・発行の作業を、皆様のご支援ご協力を戴きつつ、中心的に担当させて頂きました。北海道新聞さんはじめ、様々なメディアでご紹介頂き、ペルシャ語版のBBCやインデペンデント紙でも報道され、アマゾンの詩集の新着ランキングでは一位に輝くなど、現在までで約四百冊ほど売れています。印税は六万円程になり、そのお金をPayPalでオランダへ送ったりという活動を行っております。
八月二十四日にはまちなかぶんか小屋で発行記念のイベントを行い、木暮純さん、岡和田晃さん、二条千河さん、野口壽一さんも東京から来てくださって、ソマイアさんのイラストを描かれた日野あかねさん、表紙のお写真を提供頂いた写真家の谷口雅彦さんにもご出演頂き、三木悠莉さん、元ヤマサキ深ふゆさんも動画出演、とても盛況なイベントでした。その様子をSNSや動画などでオランダのソマイアさんはじめ世界の詩人たちへ伝え、非常に喜ばれました。九月には日本ペンクラブ獄中作家・人権委員会がこの活動の支持声明を発してくださいました。朝日新聞デジタルの玉懸光枝さん(ドットワールド編集長)による記事では、旭川の詩の文化について、小熊秀雄や今野大力の時代には、日本でも自由に詩を書くことができなかったこと、また、戦後七十二年間、詩誌「青芽」の発行を続けて、詩人に発表の場を提供し続けた私たちの先輩であり、戦争を経験した詩人である富田正一さんの想いなどについても丁寧に紹介頂いております。
十二月にはコトバスラムジャパンが全国大会へソマイア・ラミシュさんをゲストとして日本へ招聘。十二月十六日から二〇日まで、ソマイアさんは日本に滞在されました。『詩と思想』の二〇二四年六月号に、青木由弥子さんによる詳細なレポートが掲載されています、十二月十九日に横浜で行われたシンポジウム(アフガニスタンと日本の詩人による知性対話・言論の自由と女性の地位、社会の解放について・横浜市ことぶき協働スペース)もこの期間の開催です。
こうした怒涛のような経験が二〇二三年の一年間の中であったわけですけれど、旭川という詩の文化エリアで活動をしていたはずが、不思議なご縁の運びで、まさかオランダに亡命中のアフガニスタンの詩人の手に、旭川で発行された本が届くという、思ってもいなかったことが実現し、驚いていましたが、価値観が全く違う国外のことに関わる意識を私が持つことができましたのは、世界に繋がる活動を展開されているコトバスラムジャパンに関わらせて頂いたおかげであり、旭川の地でボーダーレスの感覚を持つ安部公房を学んだことが大きいと思います。このアフガニスタンの活動は、私にとっては安部公房の文学を考えることと非常に関わりが深いです。また、自分たちの取り組みが、この世界の誰かの役に立てることがもしあれば、それは今までの経験を生かした新しい本質を獲得するようなことであった、無限の可能性を持つ名づけられない実存が本質へ導かれ、変形させられるような経験であった、安部公房の小説に導かれるような膨大な変化を伴う経験であり、そしてこれは一つの本質を獲得して終わりということではない、さらなる制限と自由の絡み合う無限の可能性を生み出しながら進む運動体のようなものであると感じております。本当に多くの皆様のご支援を頂いたおかげのことで、沢山の感謝を申し上げたい次第です。
満州で敗戦を迎え、社会の基準・価値観が徹底的に壊れるところを目撃した、父を亡くし、親友を失い、青春を破壊され、時代の変化に曝され、変形を経験させられ、名づけられない「無形の自己」として「音もなくいとなむ流れ」となるしかなかった、やがてそうしたあり方を拒否し、ただ壊されるだけではない、創作の表現の無限の可能性を秘めた無形の呪縛を切り払おうとする自己を発見していく…、その宣言のような『無名詩集』から出発して、小説の方法で変形を書き、都市を書き、辺境を書き、神話を構築し、現実を破壊し、時代の転換点のイメージを無限に押し拡げることができた。世界にとって重要な偉大な作家、生誕一〇〇年の安部公房と、安部公房の原籍地、旭川東鷹栖のこと、今年から「有志の会」となりました東鷹栖安部公房の会の活動、そして多くの方の応援を戴きながら継続しております、旭川の詩文化の取り組みなどについて、本日はお話をさせて頂きました。ご清聴頂きありがとうございました。