詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■1月25日(土)14時より、旭川市東鷹栖公民館にて東鷹栖公民館と東鷹栖安部公房の会主催による「安部公房 ~バロック音楽と映像による朗読会『魔法のチョーク』」を行いました。

■1月25日(土)14時より、旭川市東鷹栖公民館にて東鷹栖公民館と東鷹栖安部公房の会主催による「安部公房 ~バロック音楽と映像による朗読会『魔法のチョーク』」を行い、おかげ様にて会場満席の盛会にて無事終了致しました。開催にあたりご協力を戴きました皆様へ心より御礼申し上げます。

 前半は詩誌「フラジャイル」第7号について、2014年から2018年まで毎年講演を担当され、昨年2019年6月に逝去された片山晴夫の講義録を収め、東鷹栖安部公房の会会員の皆様へ配布させて戴きましたことを報告、また、「フラジャイル」同人による詩の朗読(柴田望「壁ー片山晴夫先生へ」「変形譚」、山内真名「晩秋」、冬木美智子「新鮮で苦しみ多い日々」(堀川正美の詩作品 ※安部公房が活躍した1950年代に多くの名作を書いた詩人))を行いました。

 『魔法のチョーク』本編の朗読も「フラジャイル」同人の冬木美智子さん、山内真名さんが担当。また、音楽は昨年までは安部公房が用いていたシンセサイザーの音色を使用してBGMを作成しておりましたが、今回は東鷹栖安部公房の会会員の佐藤道子さんによるピアノの生演奏、曲目はバロック音楽コレッリの舞曲、Sonata "La Follia," Opus 5, No. 12を演奏して戴きました。(安部公房バロック音楽を好んで聴いていた一時期があったとの記述より)。公民館のアップライトピアノを使用、映像とともに、大変雰囲気のある空間が創出されました。

■短編「魔法のチョーク」は昭和25年(1950年)安部公房が26歳のとき「人間」という雑誌に、「3つの寓話」の一つとして発表された作品。翌年1951年に第25回芥川賞を受賞した『壁-S・カルマ氏の犯罪』が収められている短編集『壁』(月曜書房)の中に「魔法のチョーク」も収められており、現在は新潮文庫で読むことができます。安部公房の初期の短編小説で、「人間以外のものに人間が変形していく」物語はこのようにたくさんあります。
「デンドロカカリヤ」・・・植物人間
「S・カルマ氏の犯罪~壁」・・・壁人間
「赤い繭」・・・繭人間
「洪水」・・・液体人間
「R62号の発明」・・・ロボット人間
「変形の記録」・・・幽霊人間
「棒」・・・棒人間
「鉛の卵」・・・緑色人間
 太宰治の「魚服記」のように、人間が魚になってしまう、変形する、変形譚と呼ばれるものです。「魔法のチョーク」も、主人公のアルゴン君がチョークの魔法を通じて最終的には壁になってしまう、「変形譚」の一つと考えられます。実際にはありえない話」を書いている。これはつまり、反リアリズム」の文学ということになります。2016年の片山晴夫先生の講義の中で安部公房は何故、「反リアリズム」の作品を書いたのか?「本当のリアル」を求めるために、「反リアリズム」の道を行かなければならなかった、というお話がありました。日本の小説の既存形は志賀直哉に代表される私小説であったけれど、安部公房はその型にはまらず、独自の表現を追求しました。

 こうした表現の試みについて、「安部公房の作品は、《社会と自分との関係は何なのか?という視点から現代の神話を構築している》」と安部公房研究の第一人者である文芸評論家・高野斗志美先生はおっしゃっていました。高野斗志美先生が著した『安部公房論』(1971年 サンリオ選書)には「魔法のチョーク」について次のように書かれています。「「人々が出ていった後、壁の中からこんな呟きが聞こえた。「世界をつくりかえるのは、チョークではない。」そして壁の上に一滴のしずくが湧き出した。それは丁度絵になったアルゴン君の眼のあたりからだった。」 マルクスの有名な言葉を、これは想起させる。世界を解釈するだけに終始している哲学を、ひとびとは、否定しなければならないだろう。」(このカール・マルクスの言葉とは、「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。世界を変えることが大切なのに」であると考えられます。 )「変形を経験することで、主人公は、たしかに、自己の発見を、おこなう。非人間的状況に呪縛されている自己と、そういう在り方を拒否し、呪縛をきり払おうとする自己とを、同時に発見する。いうまでもないが、形成さるべき《私》は、変形した自己を超え出るくわだて、それを担う無形の自己を素材として、登場するだろう。植物的なものとの深い戦いを経て、鉱物的・無機質的なものが、《私》を構成する質に、変貌してくる」…ここで、「無形の自己」というキーワードが登場します。

 似たような言葉が、安部公房自身が「魔法のチョーク」について語った「覚え書」の中にも見られます。「この作品の主人公の名前の由来、一見バタ臭く、奇をてらったように見えるかもしれないが、じつはしごく無味乾燥、単なる科学的命名にすぎないのである。アルゴン――すなわち、Ar。空気中に約一パーセント含まれている、一原子一分子、原子価0の稀元素であり、無味無臭、沸点低く、化学的に不活性。現代の芸術は、芸術そのものの自己否定からしか成立ちえないのだ。涙は失われた芸術の句点である。」
 《無味乾燥》《無味無臭》《無形の自己》が、なぜ芸術の成り立ちと関係するのでしょうか? 《無形の自己》とは、名づけることのできない、何にも属さない、真っ白な状態
無限の可能性を孕んでいる自己、であると考えられます。何も書かれていない白紙の状態には、無限の表現の可能性が開示されています。

 安部公房は20代の初め、「詩人の運命」という詩論を書いています。世界の中に居る自分、自分の中にある世界。《世界内=在》と《世界=内在》。この2つの状態を行き来する存在こそが詩人であると論じています。何にも属さない、世界にさえ属さない無形の自己であるからこそこの2つの状態を行き来することができます。私達の生きる世界の中で、チョークによって魔法を使っていたアルゴン君は、そのチョークを用いて、世界を創ろうとしたとたん、無機質な壁への変形を強いられました。アルゴン君にとって、この魔法のチョークは、有機物と無機物の境、生と死の、現実と非現実、日常と非日常、2つの別の領域をつなぐ通路のようなものでした。アルゴン君の変形譚を読み、読者としてこの変形を経験することで、私達は「変形」を「発見」します。では、この作品を書いて発表した作者である安部公房はなぜ、私達に「変形」を「発見」させたのでしょうか。

 高野斗志美先生はこう書いています。「変形を体験することで、主人公はたしかに、自己の発見を行う。自己改革の新しい拠点を創るために、変形を発見する。」変形の発見=自己改革の拠点になる。自分が自分でなくなる、日常が日常でなくなる、非常時が訪れる。当然のことが当然でなくなる→やがてそれが当然に変わる(変形する)。そのような情況をえがきだす、安部公房は、書く行為そのものを通じて、読者に体験されることで、存在について・人間の在り方について根源的な問いを発することができた。稀有な作家であったと考えられます。

 「魔法のチョーク」は70年前の作品ですが、ぜんぜん古さを感じさせません。現在の芸術作品に及ぼされた影響の一つとして特に思いつきますのは昨年大ヒットを記録した新海誠監督の「天気の子」という映画です。ある女の子が天に祈ることにより、雨を止ませる。〈晴れ女〉としての仕事を行うたび少しずつ体が透明になっていく。空に変形していく。やがて全身が空に取り込まれていく、という犠牲を完成させるか、阻止するかといった選択を強いられる。そこで登場人物たちは、新しい自分たちの生き方を見出していく。日常と非常時、現実と非現実の通路によって(自己改革の新しい拠点を創るために、変形を発見する。)。人間の在り方について根源的な問いの発せられた、安部公房が試みた芸術表現に非常に近い、勝手な解釈ながら安部公房の影響を感じる作品の一つとして、大変嬉しく鑑賞致しましたこと等、ご報告をさせて戴きました。

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