詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■渡辺宗子さんの個人誌『弦』76(2020年1月1日)

■渡辺宗子さんの個人誌『弦』76(2020年1月1日)を拝読させて戴きました。誠にありがとうございます。
 
 嵩文彦さんの「山桃の種」、変換誤記「窘める」(反省をうながす)と「嗜む」(技芸を身につけている)から得た着想、創作の詩を磨く、普遍を求めていく営為とは、「分けいつても分けいつても青い山/(種田山頭火)に/コンビニエンスストアを開業する、」 古い景色に新しいものが置かれたり、殺戮の道具である戦車が生活道路を走ったり、アンマッチが驚きを失い当然化していく中、さらなる未完成の極へと彫り進める先に普遍性はあるのか。「オオルリの声のきこえる山桃の種を/求めて」 あり得ないところに聴こえる、波紋響く、あり得ない誤記の扉を潜って、「山ひだ深くわけ入ってゆく。」 あるはずのないもの、しかし「それはある。/たしかにある。」 普遍性とは何か。書かれた言葉によって、いまここにあるはずの無い異空間へ、一瞬にして運ばれる体験を読むものとして共有できる確認の地点とは何か。長い道のりを「(大略)」して光の速さで飛び越す。
 
 渡辺宗子さんの「落ち葉のことば」を、昨年11月2日(土)に開催された北海道詩人協会「北の詩祭」の翌日に北海道文学館へ寄った際、中島公園を歩いたとき様々な形の落ち葉が光の中に溢れていたことを憶いだしながら拝読しました。「黄色のカードが降ってくる/白樺・桜・柏・蔦の葉の/読まれたことのない/予言書の葉脈/ハートや掌の切り抜きの型/栞のように舞い落ちる」。そうか、葉は、カードは予言書だったのか。遺書であり、聖書であり、地図であり、歴史書であり、民族の戦いの書であり、人類の運命の設計図であったのかと、イメージに導かれつつ、それらはぎっしりと小学校の図書室や、鞄の中の教科書にも秘められていて「少年の少女も/物語りをよんでいる/幸運の筋を話し合っている」 「透けた葉脈の/栞りをはさんだ」 一冊の本に見事に収められる。無限に枝分かれる葉脈の路を、宇宙を旅して、時間を旅して、一瞬にして、手元の一冊に帰る。
 
 太古からの生命の秘密が描かれた木の葉と亀の甲羅。「不条理の連続線で永遠の測量(「ミドリ亀の家(6)」)、全ての悪(=フンババ)を追い払い、永遠にその名を刻もうとしたエンキドウとギルガメシュ の神話。葉は何故予言書なのか。時間は一方通行ではなく、ギルガメッシュが予知夢を見て、エンキドウが夢解きをするとき、未来から過去へも流れる。因果による確定性は否定される。江戸時代まで時計は針ではなく文字盤の方が動いていた。いまここからは見えなくても未来で得た記憶は辿れる。

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