■ブックカバーチャレンジ【3冊目】
草野理恵子詩集『世界の終わりの日』
(モノクローム・プロジェクト)
・2019年9月に発行された詩集であるにも関わらず、その半年後の現在のコロナ禍の情景と驚くほど符号するヴィジョン、閉鎖した水族館(「孤島の水族館」)、「どのように選別されるかわからないまま」「今年もツララに刺さり何人も死んだ」ウイルス的な「ツララ」、休業要請された街並み「北のはての鉄の街はいつもしんとしていた」「その息苦しさから逃れるためには本当に死ぬしかないと思っていた」(「鉄の街」)、地球最後の日の訪れが数値化され、毎日の報道で流れる。詩は想定力を持つあらゆる時代の人類の潜在意識の読み手によって書かれる。書き手によって未来の記憶が照射される。
劇作家ブレヒトの異化効果とは「当たり前と思われる事柄を、見慣れない未知のものに変える趣向」。草野理恵子さんの作品を初めて読んだのは2018年秋、胆振東部地震で街がブラックアウトし、道路から信号の灯りが消えていた。当たり前を奪われて初めて存在の根底に気づく、異世界が言語によって編まれ、生の根本を揺るがす、そこに冷たい手がそっと差し伸ばされて届く、草野理恵子作品からしか与えられない感覚に、どこか懐かしさを感じておりました…
そして先日、Youtubeでデヴィッド・ボウイの死の直前に発表された作品「Blackstar」のPVを鑑賞し、ああ、草野理恵子さんの作品に私が勝手ながらずっと感じていた懐かしい魅力は、地球に落ちて来た男デヴィッド・ボウイの作品群から得ていた感覚のようだと、理解したのでした。ブレヒトに影響を受けたボウイは「当たり前と思われる事柄を、見慣れない未知のものに変える」手法、同化効果の逆の仕掛けに、常に果敢に挑戦していた。青木由弥子さんが発行されている「Rurikarakusa」13に収録されている草野さんの御作品「カワ(たましい)屋」「背中屋」も、見慣れない未知の状況を描くSF的であると同時に、誰にも知覚できる実感の痛みと、商業主義社会の悲しみがあり、隠された、または公然と進む現代の問題が語られていると、勝手ながらそのように拝読致しました。
詩集『世界の終わりの日』、『黄色い木馬/レタス』、表紙のアートからも「Blackstar」の世界観が想起され…
https://youtu.be/kszLwBaC4Sw
聖書のような、毛沢東語録のような五芒星の書物を掲げ、世界の終わりを喧伝する宣教師、メディアコントロールそのものをアート化した第一人者のボウイが警告した通り、大衆扇動する報道、インターネット。不穏な儀式の行われる遠い宇宙の星は実は地球。プレスリーに同名の曲があり、誰の背後にも黒い星が常にあり、死ぬときにそれを見る。地球の背後に迫るBlackstar。私たちが置かれている世界と未来がどのようであるか、トム少佐を生み出したときからあらゆるメッセージを発信してくれていたボウイのことを想い、草野理恵子さんの詩集を読み、この変わり果てた世界でも何か人間の存在に関わる仕事ができるかもしれないという勇気を戴いたのでした。
(エルトン・ジョンの伝記映画DVD『ロケットマン』を観ると、古いマネージャーを棄ててジョン・リードと悪魔の契約を交わすシーンがありました。ボウイのキャリアにもそのようなメルクマールがあったのではと、契約関係の裁判沙汰について克明に記録され廃版となった『デヴィッド・ボウイ―神話の裏側 』(CBSソニー出版)を引っ張り出しておりました。)
僕は今日が地球最後の日だと知っていた
〈地球最後の日さん〉は部屋に入ると真っ赤なりんごを一つ食べた
ふたりで窓から海を見た
〈地球最後の日さん〉は言った
「二人で永遠につぶされようか」
世界がたたまれる日
ちょうど折り目で手をつないでいようと
折り目に沿って横たえればきっとふたりは重なり合えると
(草野理恵子「地球最後の日」)