詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■本日2020年7月21日(火)の北海道新聞夕刊にて…「第57第北海道詩人協会賞が決まり、旭川市在住の柴田望さん「顔」と、札幌市在住の本庄英雄さんの「空を泳ぐ」の二作を選んだ」

■本日2020年7月21日(火)の北海道新聞夕刊にて、
「北海道詩人協会賞が決定」
「第57第北海道詩人協会賞が決まり、旭川市在住の柴田望さん「顔」と、札幌市在住の本庄英雄さんの「空を泳ぐ」の二作を選んだ」
このように掲載されており、身に余りますことと、恐縮至極に存じております。
尊敬する本庄英雄さんとご一緒にお名前載せて戴きましたこと大変に嬉しく、父と同郷の本庄さんの詩集を実家の父母と拝読致しておりました。
拙詩集『顔』は、ISBNはありますが刊行詩集と申しますよりは、イベント等で売っているようなオンデマンド出版のA5版小冊子です。定型で細かい設定ができず、ルビも振れず、編集等もすべて一人でパソコンで作ったものであります。
内容と致しましては「なぜ人はこんなにも残酷なのだろう」と思わざるをえないような現代の様々な社会問題に対し、「そもそも人間は残酷なのだ」という考え方の転換へ、戦争や開拓の強制労働などをモチーフに書き出す試みでありました。つい75年前、人を殺す訓練を行わされていた主人公の女性の父(P47には特攻隊訓練の写真、蝶の形に詩行を組んだP12「顔」に訓練のこと、 P6「顔」に終戦直後の状況、表紙には蝶の絵を…)の家族史=「顔」という同じ題名の作品が半分と、それ以外の「青芽」や「小樽詩話会」で学ばせて戴いた作品などを並べ、読みやすさと読みにくさが混在しているような現代の現実を映そうと試みた痕跡のような、迎合しないというよりは読む側への配慮など、拙きところばかり目立つ個人的な一冊にて誠に恐縮です。もし読むに足るところがあるとすれば、この4~5年の間に…東鷹栖安部公房の会の活動、東延江さんの講演を聴き、富田正一さんと出会い、長屋のり子さん、村田譲さんに旭川まで駆けつけて戴いた「フラジャイル」創刊以降、あらゆる垣根を超えて多くの機会を賜り、皆様から学ばせて戴いたことを詰めこんだところであります。大学時代、恩師・高野斗志美先生と「タイムポテンシャル」を創刊した折、作品が拙かろうと「敵は大量消費社会だ、どんどん書いていけ!」(当時70歳の高野先生に社会の仕組みと戦っているという気概がおありでしたこと凄く嬉しく)と、兄弟子の清末さんと柴田は言われておりました。高野先生からもらった課題、書くことについて、『顔』の最後に掲載致しました「喫茶店」という作品をここに載せます。SNS・ブログにて日頃応援や貴重な御指導を戴いております皆様へ心より感謝申し上げます。
 
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「喫茶店」  柴田望
白黒映画の二時間のうち、一瞬だけカラーの場面はあるか?
全編白黒なのにカラーのつもりで見終わっても気づかずにいたか?
存在の核に関わる一瞬の映像に到達したか?
前衛でなくとも、独創的な手法が確立されているか?
派手さだけで終わってしまっていないか?地味であるべきではないか?
題材と手法、中身と器の化学反応が起きているか?
通路としての現実、現代の問題に対峙しているか?
一つの物語は、巨大な物語の都合で変えられているか?小さな物語を産み続けているか?
早く小さく失敗を繰り返して改良を重ねているか?
見たこともない文を見たことのある文へ、見たことのある文を考えたら書ける文へ、考えたら書ける文を一瞬で書ける文へ、極限まで磨いたか?
現実や幻想に詩が書かれるのではなく、書き上げられた詩が、新たな現実や幻想を生みだしているか?せめて試みているか?
刺激と反応の間には自由選択の余地がある。作品をどう読むかは完全に読者の責任である。それでも書き手としての責任を負うと誓うか?
作者によって限定されない無限の読み方が拓かれているか?
決して完成されない〈未完の極〉を目指しているか?
たった一人の声ではなく、時代を超えて多くの人々の声と共鳴しているか?
〈言語になる以前〉を言葉で編んでいるか?
そうであってはならない状況に与せず抗議しているか? 
存在のすべてを賭けて魂を揺さぶっているか?胸ぐらを摑んでいるか?
大量消費社会では所有目的を前提に法が定められている。それだけでいいのか?その常識を逸脱した視点から存在について考えているか?
家族、友人、知人、同僚、取引先、顔を知らない、名前も知らない、亡くなられた方、これから生まれる命・・・配慮範囲は広いか?
日本の自殺者総数は減少気味だが、小中高生の自殺者数は横ばいである。詩に何ができるか?
無私であるか?
過去の悔いでも未来への不安でもなく、いまこの瞬間を書いているか?
隠蔽を許していないか?少なくとも明らかにしているか?
死者たちに囲まれて世界は育っているか?死んだ人は蘇らない、その当たり前の現実と詩は何がどう違うか?
しがみつくのをやめたとき、作品は浮かび上がってくるか?
「シバタの作品には、死者たちの中で生きているというのが足りない」(高野斗志美
「きみは、自分の人生が文体と切り離される、そのときが必ず訪れるだろう…」(高野斗志美
《そのとき》と分かる瞬間が、先生、何度か訪れました。
 

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