詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

「 海岸線(特攻) 」 柴田望

「 海岸線(特攻) 」 柴田望

 わたしもおまえも、ふたたびみたび、
 いくたびもいくたびも、緑濃くにおう夏の日に、
 生まれて死に、死んで生まれるのだ。
 ~萩原貢「残響―赤岩にて」『悪い夏』(1970年)
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 貴様 と 俺 …軍隊ではそう呼ぶ
 遺伝子に縫われた争いのために
 無数の俺と貴様の徴証を葬る
 敬意をこめて 耳ではなく目の核で
 醒めることでは解決しない
 指令を晴らすために 雰囲気と空気を裂く
 いずれにも死者がたちこめている
 四〇〇万年の起点を背に
 枝分かれ縫合する 巡る暗号の自転
 血を分けた水の先端 舌ではなく手で
 摑めない事変との接線をたぐる
 同期生全員でボイコット計画
 樺太師範はまるで農業専門学校 
 放課後は毎日畑仕事 芋、大根、キャベツ…
 学生らしい時間をください!
 要求が通るまで、答案は白紙で出す
 隔日でスポーツと自由の時間が与えられた
 アッツ島守備隊山崎大佐以下全員玉砕の報
 軍事教官が幅を利かせていた
 寮で各室長を集めた 次の雪戦会で
 O教官を氷の上に叩きつけよう
 俺達の作った作物を俺達には食べさせず
 ピンハネをし、あまつさえ俺達を
 虫か何かの様に扱って省みない軍人があるか
 天の制裁を与えるのだ
 彼は日本刀を持っている 抜いたらどうする
 責任は俺がとる 退学になってもいい
 雪戦会終了と同時にO教官を全員で胴上げし
 上げっぱなしにして氷の上に叩き落とした
 樺太連隊情報局長のF大佐に呼ばれた
 正直に話す 不思議と何のお咎めもなく
 二週間休んだ後、O教官の態度は一変した
 徴兵年齢が一歳下がり 全員検査を受けた
 学徒出陣の風 広島文理科大を諦め
 海軍予備学生合格の通知 将来は決まった
 この戦争に命を捧げるのだ
 俺の死によって、家族は幾分でも助かるだろう
 俺達の世代の働きで日本を救うのだ
 最後の樺太神社のお祭りを見に
 西一条高橋洋品店前を歩いていると
 俺の家をきいている師範の女生徒がいた
 行くのかな… いなければ可哀そうだ
 家へ戻りしばらくすると彼女が来た
 おずおずと千人針をくれた
 その後、出征の祝賀会と
 出発前にも一度だけ人目を忍んで逢ったけれど
 俄か雨でいそいで訣れた
 連絡船に乗ってからあけてと
 小さな包みをくれた
 九月十九日、繰り上げ卒業式
 戦時下の決意を込めて答辞を読み上げた
 校長は泣いておられた
 この時代に生まれてきたのが不幸だった
 軍隊に行けば、帰ることはない
 早く二〇歳になりたいと思っていたが
 二〇歳とは、こんなものだった
 九月二〇日、豊原駅で旅行者になりすまし
 ひそかに樺太を離れた 潔く散華しよう
 目の前を通り抜ける灌木の林 白樺の樹々 
 鈴谷平野 鈴谷岳 この目に焼きつけておこう
 連絡船に乗ってから包みをあけた
 錦織の御守りと黒髪が入っていた
 妻にするなら彼女だ 生きて帰れたら… 
 彼女の父に手紙を書いた
 未練を残さず立派に死にたくて
 二、三度しか手紙は書けなかった
 軍隊はすっかり人生観を変えた
 内地人のずるさからいろいろ学ばせてもらった
 身を現人神に捧げ南溟北漠の地に散らさん
 九月二十六日、土浦海軍航空隊に入隊
 全國より約千二百名の学徒が集う
 東大、京大、早大、北大、各大学高専の秀才たち
 軍人とは名ばかりですぐに飢えた集団と化した
 人間性は認められず 娑婆っ気を抜け!
 少しでも弛んでいると 総員ビンタ 飯抜き 軍人講話… 
 短期間で日本海軍の将校を作るのだから
 無理もないが、随分ひどい仕打ちだった
 三カ月後、適性検査で三百人が飛行機へ
 九百人は陸戦隊や潜水艦へ配属
 一人一人が日本を変えたかもしれないほどの
 優秀な戦友たちが蟻のごとく死地へ送りこまれた
 五月二十七日、海軍記念日 神龍特別攻撃隊編入された
 敗戦が近づいていた 飛ぶにも飛行機が無い 
 グライダー特攻訓練 三里ヶ浜の熱い砂を踏みしめ
 本土決戦に備え あと何日かで出撃
 八月十五日、終戦 部隊長が自決した
 これからどうすればいいのか
 帰るべき故郷もなく、青森へ復員した

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