詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

「知ってほしい、近文アイヌの歴史」(川村カ子トアイヌ記念館館長川村兼一さん)6月8日(金)まちなかぶんか小屋にて

■6月8日(金)、北門中学校で知里幸恵の生誕祭が行われた様子が、翌日の北海道新聞にも掲載されています。
 この日の18時30分より、旭川市まちなかぶんか小屋にて、「知ってほしい、近文アイヌの歴史」という題にて、川村カ子トアイヌ記念館館長の川村兼一さんの大変貴重なお話を聴くことができました。

国の政策が先住民族に対してどのような仕打ちをしてきたか、いかに私たちがそのことを知らされずに生きているのか、ということを痛感させられる内容ばかりでした。本気で勉強して行かなければならないと決意致しました。
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「ロシアと日本とアメリカにアイヌは住んで居ます。熊まつり=イオマンテの儀式が古くから伝わっていたが、北海道では禁止になりました。ソビエトでも禁止されました。ソ連は酷い国でした。90年にソ連が崩壊して、90年11月にアメリカのインディアンと一緒にソ連へ行きました。広島と長崎に落とした原爆は、アリゾナニューメキシコで、米軍がインディアンを騙して掘らせたウランから作られました。ウランを掘ったインディアンはみんな癌になって死んでしまった。
アリゾナのインディアンが、広島にやってきて、私たちが掘ったウランで作られた原爆が落とされた、と謝罪しました。ホピインディアンの理事国のパスポートでやってきました。前代未聞のことです。アイヌも参加しろと言われ、88年、「原発はやめよう」と訴え、広島から幌延まで走りました。90年にはロンドンからモスクワまで走りました。ドイツでは大歓迎されました。」
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■講義メモ
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■みなさんこんにちは。Iramkarapte.今日は知里幸恵さんの生誕祭でした。知里幸恵さんは近文小学校の近くに住んで居て、ユーカラを残して、それは大正11年、岩波から『アイヌ神謡集』という本になりました。アイヌには文字が無かった。イギリスからジョン・バチラーという人がやってきて、「ユーカラはすばらしい!」と言いました。金田一京助博士がノートをいっぱい持ってきて、記録してくれ、と言いました。世界五大叙事詩の一つである、と言われました。そこで知里幸恵はローマ字を教えてもらって、アイヌ語の発音は難しい、17歳の知里幸恵がローマ字で近い音を記録して、2年後に出版されました。
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■1977年まで、アイヌは「旧土人」と言われていました。明治23年から「旧土人」でした。「旧土人保護法」と言いながら何も保護されていない。葬式、結婚式も禁止され、1500坪貸してやるから収穫をあげなければ返せと言われる。シャケも鹿も獲れない。主食が獲れなくなりました。98年続き、21年前に廃止になりました。
いまの北門中学校のところで、アイヌの子どもだけを集めて教育する同化政策が行われました。アメリカのベンジャミン・フランクリンがドーズ法で考えたやり方です。リザベーションに押し込める。民族の宗教も言葉も禁止しました。インディアンをアリゾナニューメキシコの砂漠に追いやって、トウモロコシと羊だけで細々と暮らさなければならない状態にした。ドーズは悪い事だと思わずに法を提案したが、ベンジャミン・フランクリンはインディアンを滅ぼそうと考えた。そして新渡戸稲造とホーレス・ケプロンがどうやってアイヌを滅ぼそうと考えた時、ドーズ法を参考にしました。
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新渡戸稲造は北大で「植民学」を教えていました。アイヌを植民地にできたので、同じように朝鮮、韓国、中国、台湾を植民地にするかという、とんでもないことを北大で教えていた。アイヌの言葉も宗教も同化すれば滅ぼせるだろうと考え、残念ながら成功しました。
松前藩の時代、場所請負制度でアイヌは安い賃金で強制労働をさせられました。ニシン、シャケ、コンブを獲っていて、海産物が豊富でした。
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萱野茂さんのお祖父さんは択捉島で強制労働をさせられて、平取に返らなければこのままでは子孫が絶えると思い、手をオノで切ったが、それでもまだ働けると言われ、今度はフグの毒を全身、顔にも塗って、紫色になり、ようやく帰って良いと言われました。萱野茂さんは国会議員として、国会で初めてアイヌ語でスピーチをしました。素晴らしかった。
五十嵐幸三さんと萱野茂さんが21年前に、「旧土人保護法」を無くしてくれました。私たちの求める「アイヌ新法」にはまだなっていません。アイヌの就労者は農業、漁業が殆どで、残りは季節労働者です。非常に貧しい。学校に行っても先生に殴られるので言っていません。読み書きができない。就職できないから東京や大阪げ出稼ぎに行き、差別されて殺人事件になったりということもあります。最近は本州へ行くアイヌが少なくなりました。文化だけは、政府は98年間も禁止していたアイヌ語を、今度は広めなさいと言ってくる。都合のよいときだけです。全国から寄付金を集めて保育園を作ったら、アイヌ語を教えるのは駄目だと言われました。道庁に訴えたら、旭川アイヌ語教室を初めて良いということになりました。
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■ジョン・バチラー、金田一京助久保寺逸彦知里真志保という人たちが来て、旭川アイヌ語の研究が進んでいました。金田一京助博士は大きなマイクロホンをしょってきて、ユーカラの録音をずっとやっていました。音声資料がたくさんあります。旭川と平取くらいです。全国でも珍しい。砂沢クラさん、杉村フサさん、うちのおふくろはアイヌ語をしゃべれました。アイヌは男女で仕事分れていましたが、砂沢クラさんは男の仕事でも何でもできました。砂沢クラさんのユーカラのDVDを家内が見せて、今日の生誕祭で、来年は中学生がユーカラを話すユーカラ大会をやってほしい、とお願いすると、校長先生が「ぜひやります!」と言ってくれました。
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■21年間、旧土人保護法はなくなって、STVラジオでもアイヌ語講座が放送されて、札幌の振興財団ではインターネットでユーカラの音声も聴けるようになりました。今ではカナダやロシアからもアイヌ語を研究したいという人たちが来て、これから世界中に広まって行きます。私たちアイヌは2万前、ユーラシア大陸から日本にやってきて、関東まで行きました。鳥居龍蔵さんによれば、日暮里や世田谷というのもアイヌ語だと考えられています。東北にもいっぱい地名があります。北海道には4800ものアイヌ語の地名があります。私たちが元々の民族です。日本国は関東以北はアイヌ国でした。日本国の大和朝廷は2000年前にやってきた渡来人です。中国や朝鮮からやってきました。私たちアイヌがもともと日本に居た民族です。沖縄の琉球は2万3千年前なので、アイヌより3千年古い。当時はシベリアとアラスカが陸続きで、ベーリング海が無かった。陸を渡ってアメリカのカリフォルニアへ行ったアイヌもいました。アメリカの研究者が発表しています。なるべく日本の報道界はアイヌが2万年前から日本にいたとは言いたくない。アメリカでは知られています。20年前、カリフォルニアの洞窟から古代アメリカ人(ケネウィックマン)の骨が発掘されました。アイヌに間違いないとアメリカの大学の研究者が発表しています。
例えばジュリア・ロバーツジョニー・デップ、リタ・クーリッジ、バート・レイノルズニール・ヤング、あれ全部俺の親戚なんです。みんな先祖はアイヌ。一緒なんです。
アイヌもインディアンも、イヌイットも一緒ですね。イヌイットでボブ・サムという人、「ガイアシンフォニー」という映画に出ていますけれど、旭川まで訪ねてきて、アイヌの写真を見せたら、俺の先祖に間違いないと言っていました。今年もうちにきました。
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アムール川のプラワ村というところに今もアイヌは600人、カムチャッカには200世帯のアイヌが住んでいます。アメリカのアイヌはモンゴル軍と戦いました。旭川市博物館に瀬川拓郎さんが1億円かけてつくったアイヌの戦いの模様が展示されています。アイヌは強い。和人はアイヌのことを蝦夷(えぞ、えみし)と呼びます。モンゴル人はアイヌのことを「グー・イー」と呼びます。骨の鬼という意味です。モンゴル軍に勝ったこともあります。鬼と呼ばれるほど、とにかく強かった。
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■ロシアと日本とアメリカにアイヌは住んで居ます。熊まつり=イオマンテの儀式が古くから伝わっていたが、北海道では禁止になりました。ソビエトでも禁止されました。ソ連は酷い国でした。90年にソ連が崩壊して、90年11月にアメリカのインディアンと一緒にソ連へ行きました。広島と長崎に落とした原爆は、アリゾナニューメキシコで、米軍がインディアンを騙して掘らせたウランから作られました。ウランを掘ったインディアンはみんな癌になって死んでしまった。
アリゾナのインディアンが、広島にやってきて、私たちが掘ったウランで作られた原爆が落とされた、と謝罪しました。ホピインディアンの理事国のパスポートでやってきました。前代未聞のことです。アイヌも参加しろと言われ、88年、「原発はやめよう」と訴え、広島から幌延まで走りました。90年にはロンドンからモスクワまで走りました。ドイツでは大歓迎されました。
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■いつまでも先住民がリザベーションに押し込められて、移住させられて、問題が起きています。私の先祖はオホーツク紋別で、シャチの背びれが家紋でした。萱野茂さんも、平取にいる前は海のほうにいたので、シャチの背びれが家紋です。皆移住させられました。淡路から来た屯田兵、武士のなれの果てが、女性の古着に結核菌をこすりつけて、アイヌの家に配りました。アメリカでは天然痘菌を毛布にこすり付けてインディアンを殺しました。ベンジャミン・フランクリン天然痘で殺されました。土地を奪い取るためです。
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■うちの先祖は旭川に来て、永山に住んでいました。アイヌにとっては川は生き物で、人に例えた呼び方をします。シャケやイトウと同じ、下るのではなく、上っていく、と考えます。石狩川は、イシュカラペツ、美しく作られた川、です。神様が親指でひっかいて美しい石狩川を作りました。昔は365㎞だったのに、氾濫したりして今は286㎞です。今は開発されて、あまり美しくない。神様のシマフクロウアイヌの国をつくりました。
一昨日うちに鶴田真由が来て、松浦武四郎を取材して回って、江戸時代にやってきた松浦武四郎をどう思いますか?と言われました。アイヌは札幌から旭川まで、松浦武四郎を丸木舟に乗せて川をノボリました。カムイコタンで昼めしを食べて、森でチョウザメをついて食べて、近文のうちのひい祖父ちゃんに会いました。武四郎日記に書いています。武四郎のアイヌ人物史を読むと、築別イキッカ、怪童イキッカという人物がでてきます。明治23年、とんでん兵がどーんとやってきて、馬鈴薯しか食べるものがなくて、本州に帰っていった者も多い中、いつでもロシアと戦えるようにと兵隊が送られました。
あるとき、相撲大会が行われて、イキッカはとんでもなく強くて、誰もかなわなかった。日本人はアメリカ人から見た絵では、背丈が160センチくらいで、眼鏡をかけて、出っ歯で…というイメージですが、アイヌは日本人より体が大きい。そこでイキッカは相撲大会で優勝してしまいました。屯田兵が怒って、夜に10人くらいで鎌を持ってイキッカを襲いました。イキッカは山に隠れて何ヵ月も生活しました。
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松浦武四郎は、松前藩が場所請負制度でアイヌを強制労働させていることを書いたので、松前藩は怒って幕府に訴えています。もともとアイヌは、ロシア人や中国のジャンタ民族と仲が良かったのです。うちのおばあちゃんはロシアの血が入っていたので、若い頃はマリア・シャラポアのような美人でした。松前藩は、蝦夷地がロシアになったら困るので、鎖国しました。アイヌは中国のジャンタ民族やロシア人と交易していました。中国のピアスやロシアのコートとブーツ、チョーカーやネックレス、龍の刺繍の着物や針などを所持していた記録があります。松前藩によって交易ができなくなったので、その後は日本のまがい物が入ってくるようになりました。それでも仕方なく交易をしていました。ラッコがとても高価に取引されました。ラッコの皮はミンクやテンよりも高い。ヨーロッパでも喜ばれました。ラッコはアイヌ語で海のかわうそです。トナカイ、ルイベ、ハスカップといった、アイヌ語が日本語になった例もたくさんあります。
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択捉島では開発が進んでいますが、今もラッコがたくさんいます。アメリカにもアラスカにもいます。ラッコは寝るとき、昆布を巻いて流されないようにして寝ます。ドジなラッコは釧路か根室まで流されてしまう。
あほうどり、大変失礼な名前です。鉄砲で撃っても隣のあほうどりは逃げなかったので、あほうどり、と名付けられました。日本人は失礼です。「オジサン」や「夕方のオジサン」と名付けられている魚もいます。ひどい話です。
ソフトバンクの白い犬、カイくんは北海道犬です。北海道犬はもともとアイヌ犬でしたが、アイヌ犬と呼ぶな、アイヌ差別用語だ、ということで北海道犬と呼べ、ということになりました。樺太だから樺太犬アイヌが飼っていたからアイヌ犬で何が悪いのか?
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■2020年に白老に国立アイヌ博物館が出来ます。それは大歓迎です。学生の研究場にするとのことです。100万人を呼ぼうとしています。文科省アイヌの遺体研究施設にしようとしています。国は1600体ものアイヌの遺骨を断りもなしに盗みました。沖縄でも奄美でも同じです。大学の医者のやることです。沖縄まで言いに行きました。京都大学で木箱の蓋が開いているのを見たら、沖縄の島の名前が書いてありました。沖縄に送られました。京都大に遺骨を返してください、と言いに行ったら、2020年に白老へ持って行きますから、威厳をもって管理しています、と言われました。しかし寮のゴミ箱に捨ててあったのです。皆さんも気を付けてください。墓地に本当に骨があるか?札医大、北大が遺骨を盗んでいきました。沖縄でも裁判をやっています。5月29日、NHKのニュースでやっていました。旭川で裁判が行われましたが、北大の副学長は、返しますけれど謝罪はしない、という態度です。泥棒なんだから謝れよと言いたい。
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■元々は江戸時代にイギリスのダーウィンが『種の起源』を発表して、その6年後にイギリス人が北海道へやってきて、6体持っていき、返してくれません。ロンドン自然博物館にあります。当時は白人説で、アイヌを白人だと思っていました。オーストラリア、ニュージーランド、カナダ…ほとんどの国は返しています。
北大から「返すの忘れていたので来てください」と手紙が来て、誰の骨かを訊いたら「守秘義務なので教えられません」そして1004体の骨のコピーには1枚5円かかるという。名前を黒いマジックで決して、右側に副造品としてガラス玉、ネックレスなど目録が書いてあるのですが、4回も旭川で裁判をしましたが、北大側の答えは「ありません」。児玉作左衛門の息子の児玉譲次が書いたのではないでしょうか?とのこと。北大は謝罪もしない。副蔵品も返さない。新たに裁判をやろうということになっています。静内と平取町でも遺骨返還の裁判がはじまりました。伊達でもやっている。
藤本英夫さんが遺骨を掘って大阪大に100体くらい持って行ったことが分かりました。知里幸恵知里真志保の本を書いている人です。北海道文化財団で親しくしていたのに。
苫小牧の裁判所で返還運動をします。アイヌの場合、土葬して神の国に還りますが、いっぺん弔われたものを盗むなんて、とんでもない。学者は頭骨を盗んでいきます。そこから下は研究室の段ボールにごちゃまぜになっている。7体のうち1体だけが復元できたという例もあります。
世界中の博物館が先住民族の遺骨を返しています。日本だけが返さない。50年も100年も経っています。いまだにDNA?頭の骨をけずって、文科省もいいかげんにしてほしい。皆さんも気を付けてくださいよ。イギリス人はもう来ないだろうけれど。世界的にみて昔より状況は少しは良くなりました。
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■1980年、アイヌの踊りを重要無形文化財にすることになりました。これはアイヌの舞踊のみ。旭川の踊りは古式にのっとってやっています。あくまで古式にのっとっていなければ文化財としては駄目だということです。最近は創作舞踊が多いです。旭川は地味です。浦河からは、旭川は地味だな、と言われます。浦河は渦巻き模様も目が回りそうな派手な踊りです。2020年の東京オリンピックでは、アイヌが200人出てオープニングセレモニーやれと政府が言っています。これはかつてないことです。日本の先住民族アイヌということで、政府は都合の良いときだけ利用します。日本の先住民族アイヌだと国会で認められても、私は嬉しくない。琉球アイヌの両方が認められるべき。当時の町村信孝アイヌの代表をよびつけて、「アイヌを日本の先住民族に認めてやるから、土地返せって言うなよ」と言って、町村信孝さんが「はい、わかりました」と言ってしまった。土地は返さない。慣れない農業をさせられる。
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琉球は、米軍と自衛隊の基地があるので、普天間やキャンプがありますから、土地を返すわけにはいかないので、琉球は絶対に先住民族として認められない。経済的には自分たちでやっていけると表明し、琉球の人たちは力強い。私もアイヌ国を独立する、と考えています。
アイヌも少しずつ権利が認められて、毎月東京へ、今度は6月28日に行ってきます。内閣でアイヌは何をすべきか、毎月5人で話し合いをしています。その中で、石狩川でシャケを獲らせろと言っています。26年前から稚魚を放流しています。去年、シャケの会で60本とばをつくって食べました。去年はまだ獲れないので、千歳にもらいに行きました。石狩川は深いから見えないが、忠別川は見えます。カラスにつつかれて可哀そうです。漁業になります。内閣から許可をもらってやりたい。
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■以前、北大の吉崎昌一さんが、アイヌもカナダの先住民と交流しろということで、85年、カナダのフレイダー川へ行きました。キングサーモンがとても大きい。クワドラアイランドの先住民は漁業権も持っている。とってもまじめなインディアンです。キリスト教でお酒も飲まない。歓迎パーティは教会で、讃美歌とケーキと紅茶で歓迎会です。スミソニアに行って、遺骨やトーテムポールも返してもらったそうです。永谷園の鮭茶漬けは、カナダのキングサーモンです。
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【質疑応答より】

アイヌはアルコール分解酵素を持っていない。お酒は強くありません。イヌイットも同じです。
・お酒は作っていましたが、儀式のとき、粟やひえで濁り酒を作る程度です。
アメリカ政府は、インディアンをアルコール中毒にして滅ぼしました。
 今でもアメリカの先住民で、アル中の人がいっぱい居ます。

アイヌは千歳では米を作っていました。千歳空港の滑走路を造るとき、竪穴式の住居や土器が出てきた。米や粟、ひえも出てきました。鎌倉時代までは千歳は農耕が盛んでした。松前藩が、アイヌが米を作ることを禁じました。
・東北はアイヌの地名ばかりです。漢字に当てはめると意味がわからなくなる。「吉里吉里」なんかもそうです。カエルのことをビッキと呼んでいるのもアイヌ語です。
・歴史上、昔は「アイヌ土器」と言われていたのに、なんと明治時代から「縄文土器」と呼ばれるようになりました。アイヌが300~400年前に北海道に来たという説もあり

・歯舞はアポマイ、流氷の舞うところ、という意味です。札幌はサッポロベツ。乾いた広い川という意味なのに、サッポロだけだと乾いた広い、になる。稚内はヤムワッカナイ。冷たい飲み水の沢という意味なのに、飲み水の沢、に切られてしまう。永山に「ニムオロ」という居酒屋がありますがあれが根室の正しい読み方です。

蝦夷地の地名は分からんと道長に言われ、永田方正がノートを持って各地を回り、大急ぎで付けたのが北海道の地名です。輪厚などは、永田方正がノートに「ウッツナイ」と墨で書いたら雨が降ってウの点が消えてしまい、ワッツになったということです。
旭川は「秋の川」というのが正しいということになりました。旭川空港が看板を作るので、アサンカラ=川の合流点なのか…など、高橋先生や皆さんと集まって話し合いましたが、秋鯵、シャケがいっぱい上ってくる豊かな秋の川が正しいということになりました。知里真志保旭川はチェフベツ、波立つ川、と書いていましたが。空港の看板には「諸説ありますが…」チュフベツ川、秋の川と説明を書いています。

・うちのおやじは測量技師でした。アイヌ語はおふくろの方が詳しかったし、砂沢クラさんが教えてくれた。平取の萱野茂さんのところや日川善次郎のさんのところ、静内とか、あちこち行って勉強しました。
・25歳までは東京に居ました。3日間くらい寺山修司天井桟敷へ。親父から電話が来て帰って来いと怒られました。旭大高の出身です。
アイヌは男性は鉄道か木こりになる人が多かった。アイヌ語ユーカラを聞いても仕方がない。女性のほうが、ユーカラをなくすわけにいかないということで、砂沢クラさんたちが伝えてきた。

アイヌ記念館を訪問した印象的な有名人…ある日、岡本太郎が来て、びっくりしました。
アイヌ記念館は、102年前にお祖父ちゃんがアイヌ文化博物館というのを作りまして、昭和19年に親父が勝手に「川村カ子トアイヌ記念館」に名前を変えました。
・今の北門中のところの学校に軍人たちがアイヌの子どもたちを見に来て、子どもたちが嫌がりました。軍人が校長に熊祭りをやりなさいと言って、無理やりやらされました。
 アイヌの学校に軍人が行くのはやめてほしいということで、自宅を改良して博物館を作りました。
・第七師団の前にアイヌ部落があるのは見苦しいということで、30000坪を15000坪に減らされました。アイヌに土地を返しなさいという裁判を道庁と8年やって、1軒につき2万円返すということになりました。札幌から最高裁まで行きましたがダメでした。未だに2万円受け取れと言う手紙が来ます。

アイヌの病気として、結核、らい病、梅毒、天然痘があるということが本に書かれたが、どれもアイヌの病気ではありません。松前藩が本州から持ってきた病気です。男たちがシャケやニシンを獲りに出て居ない時にアイヌの女性たちはレイプされました。あっという間に病気が広まった。7年間裁判をやって、裁判官は学問の事由であるなどと言いました。多くの図書館が閲覧を下げましたが、500部刊行されて、いまだに東京の大学などに行くと閲覧できる。1冊8万円もするような本です。でっち上げを医者が発表している。

知里幸恵さんに会ったことのある人たち、佐久間病院の奥様や砂沢クラさんから聴いたお話では、優しい人だよって、みんな言います。

2018-06-8.

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