詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■詩誌「晨」第20号(2019年12月号)

■さいたまの詩誌「晨」第20号(2019年12月号)を拝受致しました。御恵送賜り、誠にありがとうございます。
 「私は漂うものである」(秋山公哉「月下の船」)。東日本大震災津波石巻市より流された漁船が昨年(2019年5月)高地沖で発見された。「私が誰かを捜すのか/誰かが私を捜すのか/私の身が朽ちるまで続くものか/その時私の体は解けて/無数の私が沈むのか/無数の私がまた漂うのか」。2011年から8年間、「あれから三千日」、誰にも発見されることなく、忘れられないはずが別の非常事態や関心事に人々の意識が向けられた時にも、停まることなく「主も無く」「仲間も無く」月下を漂っていた。流れることは祈ることだった。「私は祈るものである/まだ流れています」。
 中尾敏康氏の「曖昧な日曜日」はとても不思議で興味深い。「あの日もこんな朝だった」。「あの日」とは何があった日なのか? 「父は庭で葉桜の絵を描いていた/祖母と姉は縁側で編物をしていた/兄は布きれで自転車の泥を拭っていた/妹は着せ替え人形で遊んでいた/母はー/母は何をしていたのだろう」。鮮明な記憶の中に謎が残る。何故鮮明に憶えているのか、どうして憶いだされるのか。その記憶をいまを繋ぐものは何か。試験管の中の螺旋階段を犬がゆっくりのぼる(移動している)。「汗をかかない犬の代わりに/ぼくはいつになく寝汗をかいて」いる。その犬とは「ぼく」にとっての何か? 「何度も寝返りを打つ/そのたびに母に救いをもとめる/犬を助けてやってと/すると母はにっこり笑っていうのだ/これは夢なのだから何も心配はいらないと」。その願いが叶ったのか、最終連で「裏木戸が開いた/母が犬の散歩から帰って来た」と、第二連の問い(「/母はー/母は何をしていたのだろう」)の答えは明かされる。曖昧とは正確の反対であり、判断の基準も人による。記憶とは願いであり、曖昧に脳を騙す。

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