詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

■詩誌「59」第23号(ソンゴクウの会 2021年3月10日)、伊藤芳博氏、岩木誠一郎氏、金井雄二氏の3人による詩誌。

■詩誌「59」第23号(ソンゴクウの会 2021年3月10日)、伊藤芳博氏、岩木誠一郎氏、金井雄二氏の3人による詩誌。
 3つの詩集の評を中心とした誌上座談会「詩について語るときにぼくたちが語ること」を拝読させて戴きました。長い引用になりますが、岩木誠一郎氏の「内側と外側の境界はもちろん曖昧なわけだけど、ここではわかりやすく詩を書いている人たちがいる部屋があって、窓の外を詩に関心のない人たちが通り過ぎているイメージで考えたいと思います。すると、現在部屋のなかは相当二酸化炭素の濃度が高くなっている状態だね。換気が必要だし、時には外の空気を吸うことも大切だと思う。そもそも窓は常に開けておいた方がいい。ではどうすることが換気や外の空気を吸うことにあたるんだろう?」という問題提起が私には深く刺さりました。
 様々なビジネス書に、企業・部署など組織形成は「聖域を作ってはならない」という言葉を見かけます。風通しを良くしていくのは確かに大切なこと。「窓の外を詩に関心のない人たちが通り過ぎているイメージ」…詩を読む、詩を楽しむためには、読むためにも教養を得なければならないし、読み手が自分で考えなければならない。世界と同じで、読み方、受信の仕方は無限に開かれている。現代詩よりも粗筋のはっきりとした小説や映画や、構成の分かりやすいポップ・ミュージックなどのほうが人気ですが、受け取り方は限定される。同じ方向を道づけられた(開かれていない)世界であって、現代詩のほうは「自ら考える」ことを養うのだから、詩の読者を増やすことは、感受性をノーマル化して普通の命令系統に従う脳を養う(洗脳の道具)には、じつは不都合かもしれません。現代の普通についていけない子どもや大人も大勢います。私もその一人。そんな感受性に、光を与えられますように詩は開かれていくべきではないかと考えます。金井雄二氏による「作者の意図している内容が、読者にそのまま移行する、という意味じゃないよね」というお言葉や、伊藤芳博氏による「なぜ詩を読もうとするのか、読もうとしないのかという視点を、書き手は忘れてはいけない」という発言を読みながら、そんなことを考えておりました。
 皆様の詩作品にも感銘を受け、金井雄二氏の「ふるさと -津和野」は一篇の詩に二篇の詩が内在する構成で、安野光雅の画集と故郷の津和野、存在の原点に還るための洞窟のように余白を捉え、非常に刺激を受けました。
 貴重な勉強の機会を戴き、心より感謝申し上げます。

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