詩誌『フラジャイル』公式ブログ

旭川市で戦後72年続く詩誌『青芽』の後継誌。2017年12月に創刊。

詩誌「詩邦人」30(編集・発行人 三村美代子氏 2020年12月15日)

■詩誌「詩邦人」30(編集・発行人 三村美代子氏 2020年12月15日)を拝読させて戴いております。誠にありがとうございます。
 目次を拝見すると、5名の同人の皆さんが、「課題詩」(テーマは”色”)と「自由詩」に取り組まれている。他の詩誌ではなかなか見かけない、創作の修練として非常に大切な取り組みと存じます。旭川では旭川詩人クラブの集まり「詩と遊ぼう」にて、テーマを決めた即興詩を書き、コピーを回して朗読するといったことが行われていました。
 「課題詩」の中では高橋慎吾氏の「かかわりという光の中で」に注目、それ自身が光を発する太陽と月の相関関係は、人と人との間にも「存在するのではないだろうか」という発見から、「大勢対自己の世界観の中で」放つ独自の色、人間それぞれの個性の色、「どんな色の未来」へと”色”のテーマが見事な思想的展開を果たす。
 他に、春夏秋冬で四季の豊かな色を表現した内城恵津子さんの詩篇「カエデ」、病院の窓から床一面に広がる西日の悠然な残照をえがく中村喜代子さんの詩篇「残照」、感銘を受けました。

 自由詩に三村美代子さんの「裏返し」、シンガポール陥落の「かんらく」という言葉について。

「「シンガポールが かんらくしました」
 世界地図の一点に日の丸を書き入れた先生
 かんらく? かんらくって?
 言葉の意味も事情も理解できぬ小学一年生」
 (「裏返し」)

 リー・クアンユー回顧録には、1942年(昭和17年)当時、ラッフルズ大学で学んでいたが、日本軍によるシンガポール占領とイギリス植民地政府の崩壊に伴い大学が閉鎖され、学業を中断せざるを得なくなったことが書かれています。
 詩人は「かんらく」の日から半世紀以上後、シンガポールへ行き、セントサ島で裏返しの日の丸の旗を目にする。「あの日 先生が書き入れたと同じ日の丸」。「カプチュール」は美容液、「カプチュアード フラッグ (ぶんどった 旗)」はタミル語?でしょうか。詩人の頬から血の気を失せさせる。

 「悲痛な叫びを胸底深く秘め
  手のふるえに思いをこめた文字 送り出す者の

  血と汗と涙と故国への想いを沁みこませた旗
  肌身離さず持ち歩いたであろう 泥にまみれた旗」

痕跡は世界の至るところで時間を止めて存在している。

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「Rurikarakusa」16(発行 青木由弥子氏 2021年3月20日)

■毎日、全国から詩誌や詩集を戴いており、本当にありがたく、感謝の気持ちをお伝えしたくて、このようにブログやSNSで御礼を申し上げ、ネットをご覧になられない方へは郵便でお送りしたりということを致しておりますが、とても沢山戴いておりますので、なかなかアップができなかったり、すべてを御紹介できていない次第でございます。誠に申し訳ございません。また、ただの自己肯定感の低い会社員の一人に過ぎない、薄学非才の私が感じたことを述べている感想文に過ぎず、評論と呼べる類のものでは到底ございません。誤読や配慮の足らない場合などあると思います。そうした場合、ぜひご遠慮なくお叱り戴けましたら幸いです。日頃皆様より大変貴重な勉強の機会を賜り、心より感謝申し上げます。

 3月にお送り戴いておりました「Rurikarakusa」16(発行 青木由弥子氏 2021年3月20日)、大切に何度も読み返しておりました。「招待席」に宮尾節子さんの詩篇「豚の川」、「弧火」の衝撃。この二つは、Atonementの詩篇。原罪という言葉が浮かびました。書くことについての姿勢が真摯なエッセイ(「許さないこと 忘れないこと」)に。戒めのモニュメント、「許さない」と「忘れない」について。裁きでも答えでもなく、詩の可能性は内省へと深く導く「問い続けるこころと言葉の冒険」。
 草野理恵子さんの作品「はしれはしれエビフライ」、魚や貝の詩は多く見かけますが、パン粉をつけられて揚げられる直前のエビフライを主題に、会話によって詩が生成される過程は初めて拝読致しました。エビは幼生期には透明なプランクトンである神秘的な生き物。約5億7000万年前のカンブリア紀に誕生。出雲風土記に記述があり、縄文時代から食べられていた。
 編集後記に青木由弥子さんが、本号の宮尾節子さんの詩を読んで、ナウシカがテト(キツネリス)に指を噛ませて信を得たシーンを想起されたと書かれており、弱い者を守るための自己犠牲について考えさせられました。詩人に着想が降りて言葉を編み、その言葉を受けて読者はさらなるイメージを織る。その響きあい。時には「展開が読めない」軌跡。空間に繊細な茎を描く。

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■『ふたりの普段詩(宮尾節子と西原真奈美のツイート連詩 はつなつの巻』

■『ふたりの普段詩(宮尾節子と西原真奈美のツイート連詩 はつなつの巻』を拝受し、感激致しております。誠にありがとうございます。昨日の大雨が過ぎ、北海道もようやく夏の気配です。

「音を持たない夜の蛍が光るように
 「逢いたい」の心が
 朝日の中で 灯っている」(ふたりの普段詩4・西原真奈美)

 言葉ではすべての気持ちを表現できない。世界の事象のすべてを表現することは文字にはできない。しかし、文字より深い想いや温度や音楽が、愛しい人の呼び名のように、言葉の奥に静かに灯っている。
 詩句と写真の響きあい。ページとページの連詩の響きあい。お二人の詩篇と写真から伝わってくる響きあう波動。はつなつの空気が凝縮されて、お二人の笑顔、こんなに素敵な「普段」をお過ごしなのかと憧れます。
 魅力的なお写真が収められた、宮尾節子さんの『せっちゃんの詩』、西原真奈美さんの『たいおん・体温・体音』も、今も大切に読ませて戴き、視覚表現と言語によって拓かれる詩の可能性について気づかされています。

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■ 神原良氏の新詩集『夜の北緯』(文化企画アオサギ 2021年6月16日)

■今年3月29日、北海道新聞に「小樽「オタモイ遊園地」跡の再開発 ニトリが事業化検討」が報じられました。小樽商工会議所が進める「オタモイ遊園地」跡の再開発計画について、似鳥昭雄会長は「収支トントンが見込めるならうちでやるかもしれない」と述べ、ニトリグループとして事業化に乗り出す可能性を示した。
 昭和初期の「オタモイ遊園地」、断崖絶壁に建てられた高級料亭「龍宮閣」を中核施設とした巨大リゾート施設、一日に数千人が訪れた人気行楽地。まるで映画『千と千尋の神隠し』のような世界。度重なる災害で閉鎖され、現在は道が閉鎖されている。
「砂の入り江」を意味するアイヌ語が語源のオタモイ遊園地の伝説について、いつか書いてみたいと思っておりました(小樽に住んでいたとき、この話を会社の上司にすると、「それがきみの人生のテーマだね」とか言われました^_^)。本日、神原良氏の新詩集『夜の北緯』(文化企画アオサギ 2021年6月16日)を拝受致しました。

「遊園地を
 幻想の人々が歩いていく
 消えた遊具
 歓声だけの海辺
 崖の未知で
 すれ違う十五年前の恋人たち
 その十五年後の
 消息」

「再訪した海辺と遊園地
 浴客の いる筈もない砂浜
 幻の感性だけが 今も聴こえ
 沖を行く 密貿易船の航跡が白く
 僕の生涯を過る」(「オタモイ幻想」)

まさにあの「オタモイ遊園地」のことが書かれており、非常に嬉しく、赤岩山展望台から見渡せる景色が広がってくる。
誰もいないはずなのにたくさんの人の気配が犇めいているあの海岸の、独特な空気が見事に編み出されている、この詩集の至るところから覗かれる深い記憶の別世界に、今日は浸っております。心より感謝申し上げます。

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■詩誌「59」第23号(ソンゴクウの会 2021年3月10日)、伊藤芳博氏、岩木誠一郎氏、金井雄二氏の3人による詩誌。

■詩誌「59」第23号(ソンゴクウの会 2021年3月10日)、伊藤芳博氏、岩木誠一郎氏、金井雄二氏の3人による詩誌。
 3つの詩集の評を中心とした誌上座談会「詩について語るときにぼくたちが語ること」を拝読させて戴きました。長い引用になりますが、岩木誠一郎氏の「内側と外側の境界はもちろん曖昧なわけだけど、ここではわかりやすく詩を書いている人たちがいる部屋があって、窓の外を詩に関心のない人たちが通り過ぎているイメージで考えたいと思います。すると、現在部屋のなかは相当二酸化炭素の濃度が高くなっている状態だね。換気が必要だし、時には外の空気を吸うことも大切だと思う。そもそも窓は常に開けておいた方がいい。ではどうすることが換気や外の空気を吸うことにあたるんだろう?」という問題提起が私には深く刺さりました。
 様々なビジネス書に、企業・部署など組織形成は「聖域を作ってはならない」という言葉を見かけます。風通しを良くしていくのは確かに大切なこと。「窓の外を詩に関心のない人たちが通り過ぎているイメージ」…詩を読む、詩を楽しむためには、読むためにも教養を得なければならないし、読み手が自分で考えなければならない。世界と同じで、読み方、受信の仕方は無限に開かれている。現代詩よりも粗筋のはっきりとした小説や映画や、構成の分かりやすいポップ・ミュージックなどのほうが人気ですが、受け取り方は限定される。同じ方向を道づけられた(開かれていない)世界であって、現代詩のほうは「自ら考える」ことを養うのだから、詩の読者を増やすことは、感受性をノーマル化して普通の命令系統に従う脳を養う(洗脳の道具)には、じつは不都合かもしれません。現代の普通についていけない子どもや大人も大勢います。私もその一人。そんな感受性に、光を与えられますように詩は開かれていくべきではないかと考えます。金井雄二氏による「作者の意図している内容が、読者にそのまま移行する、という意味じゃないよね」というお言葉や、伊藤芳博氏による「なぜ詩を読もうとするのか、読もうとしないのかという視点を、書き手は忘れてはいけない」という発言を読みながら、そんなことを考えておりました。
 皆様の詩作品にも感銘を受け、金井雄二氏の「ふるさと -津和野」は一篇の詩に二篇の詩が内在する構成で、安野光雅の画集と故郷の津和野、存在の原点に還るための洞窟のように余白を捉え、非常に刺激を受けました。
 貴重な勉強の機会を戴き、心より感謝申し上げます。

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■『新しい手洗いのために』TOLTA

■『新しい手洗いのために』TOLTA(2020.11.22)
https://spark.adobe.com/page/Pga8Tqgk03Ajt/

・手を洗うという行為についての叙事詩、『新しい手洗いのために』をようやく読めました。目次も美しい作品のようで、いつかこんな本が創りたいと思いました。
 
 「洗えなかった手をよく覚えておくこと
  この手はいまここにしか存在しない手であると
  よく意識すること」(54ページ)

 皮膚が弱くて、消毒スプレーに悩まされている人や
 ワクチンの副作用が怖くて打てないと怯えている人たちのために、詩や文学の想像力に何ができるか。

 習慣が生命と思想へ直接及ぼす変化について
 現代が告発されていると感じました。

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■山田亮太さんの第3詩集『誕生祭』(七月堂)

山田亮太さんの第3詩集『誕生祭』(七月堂)
 https://toltaweb.jp/?p=2032

 世界認識はどのように行われるべきか。今がどういう時代なのか、どのような過去から歩み続けられてきたのか。世界の実存のどの地点で、感性は何を受信することを知らぬ間に習性化され、普遍的で不可視な死角を生み出しているのか。これほど衝撃的に、考えさせられた詩集はありません。
 2019年8月24日に旭川で行われた「第18回 小熊秀雄朗読会 山田亮太さんを迎えて」(主催 小熊秀雄賞市民実行委員会)で朗読された「光る手」、詩誌「フラジャイル」7号(2019年12月)に掲載の「この世」も収録。

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